理事長の部屋

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12月 ユリノキ(百合の木)

-街路樹の今と昔、子供の頃の柳はどこへ?-

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             秋の午後の陽に透けて輝くユリノキの黄葉

 今年の11月はアメリカ大統領選挙に始まりました。長い選挙戦を通じて終始優勢を伝えられていたヒラリー・クリントン氏でしたが、終盤になってFBIがクリントン氏のメール問題を再調査するという報道が伝わるや否や、ドナルド・トランプ氏が猛烈に追い上げ、両者の支持率は僅差のままで11月8日の投票日を迎えました。メールの調査も問題なしということで終了したこともあり、大方はクリントン氏が勝利するだろうと予想していました。

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                  黄葉美しいユリノキの並木道

全世界が固唾を呑んで見守った開票速報、日本では8日朝より始まりましたが、私も気になって診療や会議の合間に隙をみてはスマートフォンを覗き込んでいました。昼過ぎには結果が判明するとのことでしたが、午後3時を過ぎても決着がつかず、しかもトランプ氏の優勢のままです。どうなることやらと思いつつ時間が過ぎ、5時近くになってトランプ氏の勝利が伝えられました。世界中に驚愕が走り、これからアメリカや世界そして日本はどうなっていくのだろうと、漠然とした不安を感じた人が多かったと思います。そして選挙が終わって10日も経たぬ17日、安倍首相は世界の首脳のトップを切ってニューヨークでトランプ氏と会談しました。安倍首相の行動力の速さにも驚かされます。
 世界の政治情勢が目まぐるしく変動した11月でしたが、日本では何も無かったかのように静かに秋が更けていました。私の住んでいる住宅地にも、公園や街路には背の高い樹木がたくさん育っていて、例年黄葉や紅葉を楽しませてくれます。今年も気が付けば何時の間にか街路樹の黄葉が始まっていました。昨年までは「美しい黄葉だなあ」と思いながらも、ただ通り過ぎるだけでした。樹の名前についても余り気に留めず、「プラタナスかな?」ぐらいにしか考えていませんでした。しかし今年は樹もさらに大きくなって例年にも増して黄葉が美しいものですから、じっくり観察して樹の名前を調べることにしました。ただし黄葉や紅葉する樹と云っても実際たくさんの種類があり、正確に識別することは容易ではありません。果たしてこの黄葉の美しい街路樹の正体を間違いなしに突き止められるかどうか不安でしたし、何を手掛かりに始めればよいか皆目検討もつきませんでした。ただ片っ端からシャッターを切っていますと、すぐに面白いことに気がつきました。葉の形です。

通常、花や木の葉は先端が尖っていますが、この樹の葉は先端が凹んでいるのです。この特徴的な葉形からユリノキの名前がすぐ浮かびました。ユリノキは樹木業界ではよく知られているようですが、一般の私達には馴染みの少ない樹だと思います。北アメリカ原産のモクレン科ユリノキ属の樹で、生長が早く樹高が50mにもなるものもあるそうです。日本へは明治時代に輸入されました。東京では明治の末に近代都市をめざして道路や公園へ植える樹木10種を選定しましたが、イチョウやプラタナスと並んでユリノキも選ばれています。ユリノキの名付け親は大正天皇だそうです。葉の形が着物の半纏(はんてん)に似ていることからハンテンボクとも呼ばれます。秋には黄葉の美しいユリノキですが、6月には美しい花を咲かせます。

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黄緑とオレンジ色の花弁を持つチューリップのような花で、そのためチューリップ・ツリーとも呼ばれます。ただ樹上の高い所に花をつけるため、地上からは新緑の葉に隠れてなかなか見つけられないとのことです。私は何年もの間、ユリノキ並木を歩いたり車で走ったりしていますが、春には高い所で美しい花を咲かせているとは夢にも知りませんでした。

 

 

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ユリノキの花

 

 

 

 

 

 

秋になると果実ができます

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          全国に植えられている街路樹の時代による種類の変遷

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(渡辺一雄著:街路時の歴史とこれから. Civil Engineering Consultant;273:10-13, 2016より引用)

 私自身今まで余り気に留めなかった街路樹ですが、よく考えますと昔と今ではその種類が変化しているように思います。上の表は全国に植えられている街路樹のうち本数の多いものの一覧を時代別に示したものです。昭和29(1954)年から約30年ごとの変化が示されていますが、イチョウや桜は変わらず人気の高いことが分かります。最近増えているのがハナミズキです。花も紅葉も美しく、成長が遅いため剪定が楽であることが、その理由だそうです。一方昔は人気があったのに最近減っている樹木には、プラタナス、ニセアカシア、ポプラ、柳などが挙げられます。これらの樹は成長が早く剪定に費用のかかることや、根が浅くて歩道の舗装を持ち上げたり、台風などの強風で倒れやすいために敬遠されるとのことです。
 

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 この中で柳は、昭和29年には10位、昭和57年には4位にまでなっていますが、平成24年にはベストテンにも入っていません。日本で柳と云えば一般的にはしだれ柳のことを指しますが、中国から渡来し奈良時代からずっと日本人に親しまれて来ました。平城京も平安京も朱雀大路には柳並木が植えられ、万葉集や古今和歌集にも柳を詠んだ和歌がたくさん登場します。垂れ下がった柳の枝に飛びつこうと必死に努力している蛙を見て自分の怠慢を戒めた小野道風の逸話は有名で、花札の絵柄にもなっています。「柳の下の泥鰌(どじょう)」「柳に風」「柳眉を逆立てる」などのことわざもたくさんあります。時代劇と云えば必ず川端柳が登場しますし、幽霊には柳がつきものでした。

 

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             歌川広重 東海道五拾三次 四日市 三重川

 歌川広重の木版画、「東海道五拾三次 四日市 三重川」にも、三重川(現在の三滝川)の畔で折からの強風に煽られている柳が登場します。風に飛ばされた笠を追いかける旅人の姿がユーモラスに描かれています。昔から伊勢の風の強いことは有名だったのでしょうか、広重の作品の中で風を扱ったものの代表作として有名な版画です。
 私達の子供の頃でも、柳はどこでも見かけた普通の木でした。柳の枝を折っては鞭にしたり刀にしたりしてよく遊びましたし、大人から「垂れ下がっている長い枝が地面に着くと幽霊が出る」と驚かされたものでした。小学校の時に習った「ほたる」という唱歌を覚えている方も多いと思います。

                          ほたる     

                                井上赳作詞、下総皖一作曲           

                     ほたるの宿は 川ばたやなぎ           

                     やなぎおぼろに 夕やみよせて           

                     川のめだかが 夢見るころは           

                     ホ ホ ほたるが ひをともす

 古くから私達日本人に親しまれて来た柳ですが、最近は余り見かけません。少なくとも私の住む津市では、街路樹としても川の堤にもほとんど見られなくなってしまいました。あれだけたくさん有った柳、いったい何処へ行ってしまったのでしょうか。
 昔から柳並木の有名な街は全国各地にあります。「昔懐かしい銀座の柳・・・」として東京行進曲(西条八十作詞、中山新平作曲)にも歌われた銀座の柳並木は、昭和40年代に一度は姿を消しますが、その後一部ながら復活したそうです。他にも倉敷の美観地区や城崎温泉などでは川端の柳並木が有名ですが、いずれもレトロな街並みに風情を添えています。 また水郷と聞けば柳を思い浮かべる方も多いと思います。千葉県香取市の佐原地区、福岡県の柳川市などが有名ですが、木曽三川に囲まれる長島地区にも柳は多かったのでしょうか。
 私は柳川市へ二度ほど行ったことがあります。北原白秋の生誕地で、今も生家が残り記念館もあります。街中を掘割と呼ばれる人工的に作られた水路が縦横に走っていて、そこを舟に乗って巡る川下りは、古き良き城下町の情景をゆっくり楽しませてくれます。

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舟から降りて蕎麦屋さんへ入りましたら「むつごろう」など有明海の珍しい魚貝がメニューにありましたので注文しました。すると店の主人は「ちょっと待って!」と言い残して裏の市場へ一走りし、注文の魚を仕入れて来て料理してくれました。柳川が有明海に面していることを、その時初めて知ったのです。掘割は水量が豊かでゆったりと流れています。川面には水生植物が連なり、藻などの水中植物が川底に繁っています。水の豊かな美しい水郷風景です。 
 しかし柳川の掘割も、昭和40年代には水は減って汚れゴミも多く荒廃していました。そこで柳川市は、市街地を流れる水路を川下りのコースを除いて埋め立てコンクリートの蓋をして下水路にする計画を立てました。その頃は全国的に汚れた疎水や水路には蓋をしようという考え方が主流を占めていたのかも知れません。その計画に異論を唱えたのは、当時柳川市役所の都市下水路係長であり、「掘割」埋め立て計画を推進する立場にあった広松伝(ひろまつつたえ)(1937-2004年)氏です。広松氏は柳川で生まれ、子供の頃から堀を流れる美しく豊かな水で遊び育って来ました。「堀を埋め立ててはならない。昔の美しい掘割を取り戻さなければならない。」と考え、市長に直談判して計画を中断させます。そして一人で河川浄化計画を作成して自ら実行に移します。氏は2年間に100回以上も住民とひざ詰め談議を行い、掘割に昔の清流を取り戻すために住民参加の浄化活動を行おうと提唱しました。さらに自ら先頭に立って川の清掃や浚渫(しゅんせつ)作業を行うことにより、行政と市民が協働する新しい運動が始まったのです。今や「協働」と言う言葉は世間に溢れていますが、真の意味で実践した初の人のようであります。この活動は宮崎駿製作、高畑勲監督の映画 「柳川堀割物語」に紹介され、全国的に知られるようになりました。映画は、全国各地における住民主体の環境保護活動のきっかけとなりましたが、その先鞭をつけたのが広松氏でした。また全国の地方公共団体の職員研修でも上映されて、行政と市民の協働活動の模範として若い職員の教育にも役立っています。もし広松氏がいなかったら柳川はどうなっていただろうかと思うと感無量の思いがします。私の高校時代からの友人で、本職のかたわら長く環境問題に向き合って来た者がいます。地元の名張川をはじめ全国各地の河川ネタの環境運動に取り組んでいます。若い頃広松氏に出会って大きな衝撃を受け、その弟子となって様々な影響を受けて来たと云います。彼の広松氏評です。「自船で連夜、漁に有明海に漕ぎ出す海の人でもありました。地元の子供達を連れて上流の山にも出掛けていました。地域を自然、文化と総合してみる哲学を体現した孤高の人でもありました。が、酒飲みで、『酔い醒めの水が旨いのが一番いい水』と言う、何よりもすぐれた庶民でした」。

 さて病院の話題です。今回は桑名東医療センター薬剤部の皆さんをご紹介します。
 

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 薬剤部員は、今まで薬剤師11名、薬剤助手2名でしたが、この4月に新人薬剤師が4名加わって総勢17名となりました。現在では、各病棟に常時薬剤師が配置されているため、患者さんが入院時に持参される薬の確認や、治療に対する医師との協議、看護師からの相談などに対して迅速に対応できる体制が整っています。薬剤部の基本的な業務である調剤や抗がん剤の調製、入院患者さんに対する服薬指導などを行うことはもとより、それ以外にも、食事サポートチーム(NST)、感染対策チーム(ICT)、褥瘡や緩和ケアなどのチーム医療の回診などにも積極的に参加しています。また地域の中核病院である当院には、様々な地域の先生方から薬を処方されている患者さんが入院されるため、入院後に当院の医師から出された処方と対比して、薬の重複がないか、のみ合わせに問題はないかなどを厳しくチェックしています。そのため人数は大幅に増えましたが、5病棟ある当施設においては、まだまだ人手が足りない状態です。
 さらに桑名市総合医療センターの3施設の中でも当センターでは、新薬の治験や製造販売後調査および大学主導の臨床研究への参画などにも取り組んでおります。これらの臨床研究に於いては、外部の医療機関が支援機関として参加しているため、薬剤部はそれらの外部医療機関と院内の関係部署との間の連絡や調整を司る統括的な事務局の役割を担っています。月1回開催される治験審査委員会や倫理審査委員会を取りまとめ、治験薬や研究書類を整理して厳重に管理することで、臨床研究が問題なく進行しております。
 桑名東医療センター薬剤部の皆さんは、『チーム医療の一員として、薬学的管理を通じ患者本位の医療に貢献する』を基本理念とし、日々、業務に励んでいます。これからも、どうぞよろしくご支援のほどお願い申し上げます。

桑名市総合医療センター理事長 竹田 寛   (文、写真)

竹田 恭子(イラスト、写真 ) 

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