理事長の部屋

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12月:晩秋

―弱まりゆく光に黒い影、傾いた陽光の演出する里山風景―

傾いた陽光に照らされた雑木林の紅葉が光輝き、山々の黒い影の中で浮かび上がります。 遠くに小さなスポットライトを浴びた竹林が見えます。晩秋の里山風景です。

 年明けとともに日本列島はすべてオミクロンに置き変わりました。1月末には、日本全国における新規感染者は8万人を超え、自宅療養者も26万人と連日過去最多を更新しています。これから先どこまで増えて行くのでしょうか、懸念されます。前号では拡大の始まったばかりのオミクロン感染についてまとめましたが、それから約1か月経って情勢も変化し、新たな事実も判明して参りましたので、ここで再度まとめてみます。

1)感染力:
 感染力の強いことは、ご周知の通りです。ところで最近気になるニュースが入って来ました。オミクロン株には、その系統としてBA.1BA.2があり、現在日本で主流となっているのはBA.1です。ところが最近デンマークやイスラエルなど一部の国では、BA.2が増えているとのことです。、BA.2の特徴は、感染力がBA.1より18%ほど強いことと、通常のPCR検査では検出できないことで、そのためステルスオミクロンとも呼ばれています。 ステルスとは英語のstealth、「隠密に」「気づかれずに」などの意味で、知らぬ間に拡がっていくためこの名が付きました。今後BA.2オミクロン株の増えることが気になりますが、幸い国内のPCR検査では検出可能で、毒性もBA.1と変わらないそうです。

2)重症化率: 
 この1か月の経過で重症化率も低いということが明らかになって来ました。三重県内の医療機関におけるコロナ感染状況を調べますと、デルタ株最盛期の昨年92日には入院患者数308人に対し重症者数は31人(10%)でしたが、オミクロン株の拡大した 126日には入院患者170人に対し重症者はわずか1人(0.6%)で、約1/20になっています。この差の主な要因は、オミクロン感染では肺炎を起こすことが少なく、人工呼吸器などを必要とする患者が少ないことです。これは患者さんにとっても医療スタッフにとっても有難いことで、入院患者は連日増え続けていますが、医療の現場は思いの外平穏です。今までは若年感染が多かったのですが、これから高齢者の感染が増えるものと想定されます。高齢になればなるほど肺炎などを合併しやすく、重症者の増えることが危惧されます。重症患者を増やさないためには、高齢者の新規感染を抑えることが大切で、そのために最適な方策を急がねばなりません。

3)ワクチンの発症予防効果:

 図1は、オミクロン株とデルタ株に対するワクチンの発症予防効果を経時的に比較したものです。ファイザーワクチン2回接種では、オミクロン株の発症防止効果は5か月も経ちますと10%ほどに低下します。3回目のワクチン接種により発症予防効果は再上昇しますが、オミクロン株に対しては、ファイザーワクチンよりもモデルナワクチンの方が効果は高くなっています。日本では、3目の接種にファイザーワクチンを希望する人が多いようですが、モデルナ社の方が効果が高いようです。気になる副反応も、投与量を半分にすることで抑えられるとのことです。

 

図1 ワクチンのコロナ感染発症予防効果 (NHKのホームページより)

4)ワクチンの重症化防止効果:

 オミクロン感染による入院を防ぐ効果、すなわち重症化防止効果は、ファイザーやモデルナ社などのワクチン2回接種では半年もすれば半分ほどに低下しますが、3回目の接種を行うことにより劇的に改善します(表1)。

表1 ワクチンのコロナ感染重症化防止効果(NHKのホームページより)

5)今後どうすればよいでしょうか。
 今年127日における欧米諸国と日本の新規感染者数 (人口100万人あたり)とワクチン3回目の接種率を比較しました(表2)。日本を除く4か国では、日本に比べ新規感染者数は桁違いに多く、また3回目のワクチン接種率も格段に高くなっています。イスラエルでは4回目の接種すら行われています。それなのに感染者が多いということは、どういうことでしょうか。

表2 新規感染者数/日とワクチン3回接種率の比較(Our World in dataより)

 一つにはワクチンのオミクロン感染防止効果が絶対的なものではこと、さらにこれらの国ではマスク着用の解禁など行動規制の緩和が進み、ワクチン未接種や3回目未接種の人たちの感染が多くなっていることが考えられます。
 一方日本では、現在まん延防止等特別措置が発令されていますし、そうでない場合にも国民の誰もがマスクの着用、三密の回避、手洗いの励行などの感染防止行動をきちんと守ります。ワクチン接種は重症化を防ぐために絶対に必要ですが、感染を防止するためには、さらに感染防止行動を併用することが大切なのではないでしょうか。日本人の几帳面な感染防止行動が、新規感染者の増加をどこまで抑えられるか、ここ数週間でその真価が問われます。

 

 さて今の季節、咲いている花が少なく、いつも困ってしまいます。そこで今月は晩秋の  里山風景に致しました。晩秋の里山は、傾いた太陽により、弱々しくも照らし出されて光輝く風物と、背側の山々や様々な事物が投げ掛ける黒い大きな影が交錯します。弱まりかけた陽光と黒い影が織りなす晩秋の里山風景、いずれも拙い写真ですがご覧ください。

 

 さて2021年も、瀬戸内寂聴さんはじめ国民に愛された多くの方々が亡くなられました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。そのなかで、私にとって思い出深い人は、坂本スミ子(1936-2021年)さんです(以下敬称略)。私たちが小学生の頃、人気番組であったNHKの「夢であいましょう」の主題歌を子守歌のようにやさしく歌ってくれました。

      夢であいましょう      

        永六輔作詞、中村八大作曲

夢であいましょう    夢であいましょう

夜があなたを抱きしめ  夜があなたに囁く

うれしげに 悲しげに  楽しげに 淋しげに

 私は、「うれしげに 悲しげに 楽しげに 淋しげに」の歌詞に妙に惹かれました。逢いたい人に夢の中で会うのに「うれしげに」「楽しげに」は分かりますが、「悲しげに」「淋しげに」はどういうことだろう、子供心に不思議に思ったものでした。

晩秋のある日、新しく造成された団地の斜面を彩るハゼの木の紅葉。遠くの空の雲が印象派絵画を彷彿とさせます。

 もう一つは彼女のヒット曲の一つ「夜が明けて」(なかにし礼作詞、筒美京平作曲)です。私は中学時代、ラテン音楽、特にフォルクローレと呼ばれる南米各地の民族音楽をよく聴いていました。なかでもアンデス地方の「花祭り」が好きで、軽快でテンポの良い旋律でありながら、どことなく哀調を帯びているところに魅せられました。「夜が明けて」には「花祭り」に似たメロディとリズムがあり、作曲者の筒美京平もフォルクローレを意識して作ったそうです。彼女がもともとラテン歌手だったことも良かったのでしょう。私が初めてこの曲をラジオで聴いたのは、社会人になってからのことでしたが、何か懐かしい曲を聴いたような気がして、それ以後、私がカラオケで歌う定番の曲となりました。

 しかし坂本スミ子と言えば何と言っても、1983年第36回カンヌ国際映画祭でグランプリ(パルムドール)を受賞した映画「楢山節考」で主演したことでしょう。飢饉などで食糧難となり、一家の食い扶持を減らすために老人を山へ捨てる姨捨物語です。当時40代の彼女は30歳ほど年上の「おりん」婆さんを演じるために、前歯を削ったそうです。
 原作は深沢七郎(1914-87年)、山梨県に生まれ、旧制中学を卒業後、ギタリストとして演奏活動を続けながら小説を書き、42(1956)の時に「楢山節考」で 第1回中央公論新人賞を賞しました。その後、農場で暮らしたり今川焼屋を営んだりしながら、「笛吹川」「東京のプリンスたち」「みちのくの人形たち」など多数の 小説を上梓しました 。
 私たちの大学生の頃は ヒッピー文化全盛で、深沢七郎の常識や型にはまらない自由な生き方は多くの若者の共感を集め、教祖のように慕う友人までいました。私はそこまでのめり込めませんでしたが、「楢山節考」には興味があって読み始めました。しかし最初の数ページが単調で、なかなか小説に入って行けません。短編小説なのに途中でリタイアです。二度ほど挑戦しましたが、いずれも挫折に終わりました。

 それから50年、今回再挑戦することにしました。今度こそは、と意気込んで読み始めたのですが、やはり最初が退屈です。小説へ没入できません。それでも今回は我慢して読み続けました。すると、どうでしょう。中盤には「おりん」婆さんや家族、村人たちの行動や心理がきめ細かくダイナミックに描かれ、終盤の「おりん」婆さんが息子の辰平に背負われて楢山へ登っていく場面では、その緊迫感と迫力ある情景描写に圧倒されました。これは凄い小説だということを初めて知りました。 中央公論新人賞の審査員を担当した三島由紀夫は、こう記しています。「はじめのうちは、なんだかたるい話の展開で、タカをくくつて読んでゐたのであるが、五枚読み十枚読むうちに只ならぬ予感がしてきた。そしてあの凄絶なクライマックスまで、息もつがせず読み終ると、文句なしに傑作を発見したといふ感動に搏たれたのである」。三島由紀夫も同じように感じていたことを知って、少し安心しました。他にも正宗白鳥、武田泰淳、伊藤整など名だたる作家や評論家から絶賛され、現在も読み継がれている名作です。

 映画化は2度行われました。
 1度目は1958年、木下恵介監督、田中絹代、高橋貞二主演です。私が小学校3年生の頃でしょうか、当時この映画は、「二十四の瞳」や「喜びも悲しみも幾年月」などのヒューマニズムあふれる映画で人気を博した木下作品とのことで大評判となり、私は父に連れられ名古屋の封切館まで見に行きました。その頃名古屋の地下街には、靴磨きや戦争被災者の人たちがいっぱい並んでいて、子供心に驚いたのを覚えています。映画の内容はまったく覚えていませんが、当時としてはめずらしいカラー作品で、色彩の美しかったことだけ印象に残っています。
 2度目は1983年、今村昌平監督、緒方拳、坂本スミ子主演で、カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した作品です。これは私は30代、映画館で観ました。
 この2作品、どちらも一度は観ているのですが、ほとんど記憶にないこともあり、比較してみたいという気持ちもあって、今回改めて両方とも見直しました。
 まず木下作品です。驚いたことに、この映画はすべてスタジオ内のセットで撮影されています。楢山などの遠景はすべて描かれたものです。歌舞伎の手法を用い、浄瑠璃と三味線が流れ、日本の古典芸能の様式に沿った映画仕立てになっていて、この映画にかける木下監督の意気込みが感じられます。ヴェネツィア国際映画祭に出品し惜しくも賞は逃したものの、有名な評論家フランソワ・トリュフォーが絶賛したそうです。
 一方の今村作品ですが、監督独特の人間の性と業の描写を織り交ぜ、多少のユーモアも加えて、「おりん」婆さんとその家族、村人たちを、ありのまま生き生きと描いています。

 この物語では、「老醜」「棄老」「貧困」「食糧難」「村の掟」などといった重いテーマが扱われています。近所の家の父が他家の食料を盗もうとして捉えられ、村の掟により、幼い子供たちも含め家族全員が生き埋めにされるというむごいシーンもあります。「おりん」婆さんの幼馴染で同じ年の隣家のお爺さんは、楢山へ登るのを嫌がって逃げ回り、最後は息子に紐でぐるぐる巻きにされて楢山途上の谷底へ突き落とされます。ややもすれば「悲惨さ」や「残酷さ」が前面に出て来そうな筋書きですが、そうさせないのが「おりん」婆さんの存在です。70歳になる「おりん」婆さんは、隣のお爺さんとは違って自らお山へ行くことを希望し、山の神に会えることを楽しみにしています。出発の日までに、自分の家族や近所の人達にいろいろ気配りをし、自分の知っていることをすべて教え、持っているものを与えます。そして出発の朝、二の足を踏む息子を急かし背負われて山へ登りますが、その顔には悲壮感や未練はありません。穏やかな眼差しで、歩を緩めがちな息子を手のひらで合図して急がせます(山へ入ったら喋ってはいけないことになっているからです)。山頂近くなって人骨の散乱する場所に着き、「おりん」婆さんはその一角に正座します。すると雪が降って来ますが、お山に上がった日に雪が降ると運が良いそうです。雪の降る中、合掌し瞑目する母親の姿に後ろ髪を引かれながら、辰平は山を下ります。
 お山へ登る「おりん」婆さんの迷いのない一途な姿を見ていますと、私たちは「可哀想」というよりも「清々しさ」「頼もしさ」のようなものを感じます。その「おりん」婆さんを、田中絹代も坂本スミ子もそれぞれ見事に演じました。

田中絹代の「おりん」婆さん

 田中絹代の「おりん」婆さんは、彼女も前歯を抜いて臨んだそうですが、昔ながらの上品で美しく老いた女性で、映画に流れる日本の古典的様式美の中で、物語の純粋性、透明性を高めています。   
 一方の坂本スミ子の「おりん」婆さんは、人の好いしっかり者のお婆ちゃんで、人間らしく愛らしく描かれています。

坂本スミ子の「おりん」婆さん

 この二人の「おりん」婆さんに、息子辰平の母に対する愛情が重なって、両作品とも見終わった後は、悲劇というよりも、ほのぼのとした温かい人間劇のように感じます。

 「楢山節考」は信州の「姨捨伝説」をもとに書かれた小説で、古くは平安時代の「大和物語」に登場します。そこには、信濃更科に住む男が、妻にそそのかされて、育ての親である老婆(伯母)を山へ捨てて来ますが、家へ戻ったら心配になり翌朝連れ戻したとなっていて、決して親を捨てない、親子の情愛が述べられています。
 「姨捨伝説」の舞台は、長野県千曲市近くにある冠着山(かむりきやま)です。標高1252mの山の麓には、JR篠ノ井線が走り姨捨駅があります。駅の近くに広大な姨捨の棚田が拡がり、月夜には棚田のそれぞれに月が美しく輝き、「田毎の月」として古くから親しまれてきた名勝です。その長野県に伝わる民話「姨捨山」を紹介します。

 昔、年寄の嫌いな殿様が、「年寄は60歳になったら山へ捨てること」というおふれを出しました。ある日、若い男が60歳になった母親を背負って山を登っていきます。道中、背中の母親が「ポキッ、ポキッ」と木の枝を折っているので尋ねると「お前が帰る時に道に迷わないためだ」と言います。こんなやさしい母親を捨てることはできないと家へ連れて帰り、隠します。しばらくして殿様は、隣国の殿様から様々な難問を投げ掛けられ、それに答えられなかったら攻撃すると脅かされます。困った殿様は領民に答を求めますが、すると年老いた母親が全問見事に答えました。それを聞いた殿様は心を改め、以後年寄を大切にするようになったそうです(長野県の民話「姨捨山」を要約。長野県のホームページより)。

 全国のいろいろなところに「姨捨伝説」は残っていますが、実際に棄老が行われたという史実はどこにもないそうです。逆に大和物語や長野県の民話のように、年老いた親を思う子の気持ちを讃える話が多いようです。人間はどんな厳しい状況下に置かれでも、残酷や非情に徹し切れないということでしょうか。これは嬉しいことです。
 
 そして私は今思っています。残された時間を充実したものとするために、「おりん」婆さんのように生きて行きたいと・・・。誰にも迷惑をかけず、何かを信じて一途に・・・。

カーテンコール。今年の舞台を無事終えた老優たちは、最後の挨拶をしています。来年もよろしく。

 

(この2年間の理事長の部屋をまとめて製本するために、これから2か月間編集作業に入ります。この間、理事長の部屋は休みますが、4月には再開する予定です。)

                                                                                                       令和4131日                 

                桑名市総合医療センター理事長 竹田  寛 (文、写真)              
                               竹田 恭子(イラスト)

                                                                                                                                                                   

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