理事長の部屋

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8月 おにゆり

―狐の嫁入り、提灯行列―

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 今年の8月はどうなっているのでしょうか。連日曇り空で、時折激しい驟雨(しゅうう)に見舞われ、夏らしいスカッと晴れた青空がなかなかみられません。全国各地で大雨による土砂災害が起こり、広島では80名近くの方が亡くなったり行方不明になっています。三重県でも台風11号の接近した8月9日(土)には大雨特別警報が出され、一時は緊張しましたが幸い大きな被害は無く過ぎました。例年大雨と云えば梅雨末期に集中して起こるものですが、今年はひと夏中ずっと続き、それも日本のどこでいつ起こるか分からないという何とも不穏な気候でした。

 梅雨時のように何もかもが湿ってうんざりするような毎日、そんな中で爽やかな旋風を巻き起こしてくれたのが、甲子園における三重高校ナインの活躍でした。三重県勢久々の優勝かと期待されましたが、大阪桐蔭高校に逆転負けし惜しくも準優勝でした。でも彼らの素晴らしい健闘には心からエールを送りたいと思います。三重県の高校として初めて優勝したのが四日市高校で、59年前の1955年、進学校で初出場・初優勝というとんでもない快挙を成し遂げました。その時一人投げ抜いたのが左腕の高橋正勝投手で、後に巨人へ入団しスコアラーとして活躍しました。春の選抜大会では1969年に三重高校が全国優勝しています。

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 そんな異常気象の夏にもかかわらず、8月上旬には「おにゆり(鬼百合)」が例年のように何喰わぬ顔をしてたくさん花を咲かせてくれました。黄色がかった鮮やかな朱に多数の黒い斑点を散りばめた花びらは、夏の昼下がりの傾きかけた陽射しを浴びて、なおいっそう明るく輝きます。たくさんの花が、うなだれるようにして並んで咲いているのを眺めていますと、狐が提灯(ちょうちん)をぶら下げて行列しているように見えます。うつむいて背を丸め、表情をかみ殺して黙々と歩く狐の横顔、昔から云われる狐の嫁入りでしょうか、あるいは「おにゆり」の花そのものが狐の持つ提灯かも知れません。私達人間にとって狐が身近な動物であった頃の民話の世界へ誘われます。

 「おにゆり」の花を正面から見ると、黒褐色の葯(やく)をつけた6本の「おしべ」と、中央にそり返る1本の大きな「めしべ」がみられます。その姿は、真っ赤な顔に大きな鼻の聳え立つ天狗の面のようです。子供の頃、近所の神社の壁に掛かっていた大きな天狗の面を初めて見た時、強烈な赤色と迫力ある形相に「びっくりした」ことを覚えていますが、その時の驚愕が蘇って来るようです。

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 しかしこれだけ立派な「めしべ」と「おしべ」を持ちながら「おにゆり」は種を作りません。代わりに「むかご」を作ります。「むかご」とは、葉の付け根や茎にできる芽が栄養分を貯めて球状になったもので、ヤマノイモやナガイモ、秋海棠などでみられます。「むかご」は地上に落ちて芽を出し新しい植物が誕生しますが、このように種子を介さず根、茎、葉などの栄養器官から次の世代の植物を生み出す生殖法を栄養繁殖(または生殖)と云います。

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おにゆりのむかご

 栄養繁殖をする植物には、私達がお馴染みの野菜や果物がたくさん含まれます。例えば玉ねぎ、にんにく、ジャガイモ、サトイモ、イチゴなどは地下茎を介して、またサツマイモは根を介して繁殖していきます。これらの植物では「おしべ」や「めしべ」を必要としない無性生殖で増殖していくのですが、なぜ無性生殖をするのでしょうか。

 動物や植物の細胞は、基本となる数の染色体セットを1対(2セット)持っています。この基本となる染色体の数は、人間23本、牛30本、稲6本など個体によって異なりますが、どの細胞もその2倍の数の染色体を持っていることになります。これを2倍体と云います。植物が子孫を残すために生殖細胞を作る場合、まず親細胞が減数分裂して染色体数が半分(1セット)の配偶子と呼ばれる細胞を2個作ります。このうちの1個の配偶子と別の個体の配偶子1個とが結合すると、それぞれ1セットずつ親の遺伝子を受け継いだ2倍体の新しい個体が誕生します。このようにして両親の遺伝的性質が伝わっていくのです。

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おにゆりにやって来たアゲハ蝶

 「ところが「おにゆり」の細胞には染色体数が3セット(3倍体)あり、偶数ではないため二等分することができず、減数分裂が起こらないため通常の生殖ができないのです。
 それでは「おにゆり」の立派な「めしべ」や「おしべ」は何のためにあるのでしょうか。確かに鮮やかな色彩に惹きつけられて、アゲハ蝶や蜂などが頻繁に訪れます。虫達は何も知らずに足に花粉を付けては他の花へ飛び立って行き受粉の仲介をしています。しかし受粉しても種ができないのです。
 何のための「めしべ」や「おしべ」でしょうか。単なる飾りでしょうか。あるいは特別な秘密の理由でもあるのでしょうか。生物界の不思議を感じるとともに、何か狐につままれたような気もします。

 「狐の嫁入り」という言葉は、通常二つの事象に出会った時に使われます。一つは晴れているのに雨が降る、いわゆる天気雨の降った時です。お日様が照っているのに降るはずのない雨が降る、狐に化かされたような感じになるからそう云うでしょう。ところで天気雨はどのような場合に降るのでしょうか。一般に雨粒が地上に落ちて来るまでには10分ほどかかるそうですが、その間に雲が消えてしまったり移動した場合、あるいは遥か遠く離れた雲で作り出された雨粒が、強い風にあおられて雲のない所へ落ちて来た場合にもみられます。陽の照っている最中に雨粒が落ちて来ますから、よく虹が現れます。私達の子供の頃は、天気雨が降ると狐の嫁入りが行われていると云いました。天気雨を動物の結婚と結びつける伝承は世界各国でみられ、韓国やインドでは虎、アフリカでは猿やジャッカル、ブルガリアの一部では熊、イタリヤやイギリスの一部では日本と同じ狐が結婚すると云われているそうです。面白いですね。

 もう一つは、夜間にみられる無数の怪しい火、狐火を見た時に、狐の嫁入りが行われていると云います。狐火とは淡紅色の火で、たくさんの火が点滅しながら連なって移動するため「狐の提灯行列」とも呼ばれます。狐火は、翌朝雨になりそうな湿気の多い日の薄暮や黄昏時に、川の対岸、山との境界あたり、里山のはずれなどでよく見られるそうです。
郷土研究家の更科公護氏によれば、狐火は次のように定義されています。

(1)火の気のない所に火の玉が一列に並んで現れる。
(2)色は提灯または松明(たいまつ)のようである。
(3)狐火はついたり消えたり、消えたかと思うと、異なった方向に現れたりする。
(4)狐火の現れる季節は春から秋口にわたっており、蒸し暑い夏、どんよりとした天気の変わり目に現れやすい。
(5)狐火の正体を見届けに行くと、途中でかならず消えてしまう。

  狐火に関する伝承は、沖縄を除く全国各地において様々な形で伝えられており、古文書や地誌などにも記載され、歌舞伎などの芝居や絵画にも登場します。なかでも安藤広重の版画「名所江戸百景」の中の「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」は有名で、毎年大晦日の夜、稲荷神の頭領である王子稲荷へ参拝するために、関東一円から集まって来たたくさんの狐が近くの大きな榎の木の下に集合している様子が描かれています。そのためか狐火という言葉は俳句で冬の季語になっています。

 原因不明の怪しい火の現れる現象を怪火(かいか)といいますが、狐火の他にも鬼火とか不知火、火の玉などと呼ばれる怪火があります。これらが同じものを示しているのか、そうでないのか、よく分かりませんが、これらの原因として、リンやメタンガスの燃焼、放電による発光、狐の毛が触れ合う時に生じる静電気、光の異常屈折などとも云われますが、単なる人間の目の錯覚とする説もあります。

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 高校時代、友人がこんなことを言っていました。「中学校の時、昼休みに校庭で仲間と遊んでいたら、突然オレンジ色の炎を上げて燃える玉がフワフワと飛んで来て校舎の屋根瓦の上に止まり、しばらくしたら燃え尽きて消えた」。
彼はまじめな性格で真顔で話していましたので嘘ではないと思います。しかも日中に起こった出来事ですから、見間違いではないでしょう。私が実際に怪火を見たという話を聞いたのは、後にも先にもこれ1回だけです。不思議ですね。

 愛媛県に伝わる「キツネのちょうちん」という昔話があります。テレビ番組で人気のあった「まんが日本昔話」で放映されましたが、そのあらすじを紹介します。

 むかしむかし、瀬戸内海の小さな島に怠け者の兄と働き者の弟の双子の兄弟が住んでいました。ある日、弟は畑仕事を終え、真っ暗になった道を家へと帰る途中、赤い提灯を下げた白狐(しろぎつね)が現れて、弟に提灯を貸してくれました。おかげで弟は暗い道も安心して帰ることができました。次の日も、畑仕事を終えた弟の前に白狐が現れましたので、弟はお礼を言い提灯を白狐に返しました。白狐が提灯を一振りすると赤い光が灯り、二降りすると底から小判がこぼれ落ちました。「おら、小判より話し相手がほしい。この島の外の話が聞きたい」と、弟は白狐が出してくれた小判を断りました。

 次の日、畑仕事を終えた弟の前に、白狐が若い娘となって現れ、弟を大岩の上へ誘い出して都や芝居、祭りといった島の外の話を語り始めました。弟にとって、白狐の夜ごとの話は夢のようで、何日かがあっという間に過ぎました。それを聞いた怠け者の兄は、ある日、弟になりすまして畑に出かけました。白狐が現れると、兄は「お前の話は聞き飽きた。それよりも金が欲しい」と言いました。 

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 白狐は黙って提灯を二つ兄に渡しました。兄が提灯を二回振ると、小判がキラキラとこぼれ落ちました。兄は大喜びでしたが、白狐が姿を消すと小判は兄の手から舞い上がり、月見草の花に変わってしまいました。月見草は畑から家までの道に何百何千と咲きこぼれました。それから後、白狐の姿を見ることはありませんでしたが、畑から帰る弟を助けるかのように、月見草は明るい黄色の花をつけるのでした。弟は月見草の花が咲く頃になると、必ず白狐の事を思い出したのだそうです。 

 白狐と弟のほのかな恋心が感じられて、なかなかロマンチックな物語ですね。小判が月見草に変わるというのも面白いです。他にも同様の話がありますが、やはり小判が月見草に代わります。ところで月見草ですが、黄色い花と思ってみえる方も少なくないのではないでしょうか。これは太宰治が小説「富岳百景」の中で、大待宵草(オオマツヨイグサ)のことを「月には月見草が良く似合う」と書いたために間違えられるようになったとのことです。ほんとうの月見草は、4弁の白い清楚な花です。初夏の頃に道端で良く見かける桃色の小さな花も月見草の仲間で、桃色昼咲き月見草と呼ばれます。

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月見草
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大待宵草(オオマツヨイグサ)
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桃色昼咲き月見草

 狐にまつわるいろいろな話を書いて来ましたが、締めくくりは三重県ゆかりの作曲家、弘田龍太郎の童謡「叱(しか)られて」に登場して貰います。弘田龍太郎(1892年~1952年)は大正から昭和初期の時代に活躍した作曲家で、高知県に生まれましたが、10歳の時父親が三重県立第一中学校(現在の津高校)の校長に着任したため津市へ移住しました。自身も津高校へ入学し、のちに東京音楽学校(現在の東京芸術大学)へ進学して作曲家の道を志します。最も活躍したのは大正時代中期で、児童文学雑誌「赤い鳥」の一員として数多くの美しい童謡を作りました。代表曲として「鯉のぼり」「浜千鳥」「靴が鳴る」「春よ来い」「雀の学校」などがあります。「叱られて」は津高校の裏手の風景をモチーフにして作曲されたと云われます。誰もが子供の頃に経験したことのある、(親に)叱られた後の悲しい心細い気持ちが、夕暮れ時の里山を舞台にしてやさしく歌われています。

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叱られて
清水かつら作詞、弘田龍太郎作曲

叱られて 叱られて
あの子は町まで お使いに
この子は坊やを ねんねしな
夕べさみしい 村はずれ
こんときつねが なきゃせぬか

叱られて 叱られて
口には出さねど 眼になみだ
二人のお里は あの山を
越えてあなたの 花のむら
ほんに花見は いつのこと

 さて病院の話題です。新病院の建設計画がなかなか進まず、職員はもとより市民の皆様にも、多大なるご心配とご迷惑をお掛けしています。心よりお詫び申し上げます。新病院建設準備室のスタッフは市職員と力を合わせて、少しでも早く新病院の工事が始まるように努力しておりますので、近いうちに必ずや朗報をお聞かせできることと確信しています。申し訳ありませんが今しばらくお待ち下さい。

 このような困難な状況下にはありますが、現状の施設においても、より良い医療の実現をめざして、積極的に組織の改編や人材の登用、設備の充実などに努めております。その中でこれから力を入れて行こうとする診療分野の一つに、膠原病やリウマチ性疾患などの慢性疾患があります。これらの疾患群の中には、診断も治療も難しく難病と称される疾病(しっぺい)も少なくありません。残念ながら三重県内には、これらの疾患を専門とする医師は少なく、県内の患者さんはしばしば県外の病院で診療を受けねばならないこともあります。幸い桑名東医療センターには、この分野を専門とする内科の松本美富士医師と整形外科の中瀬古健医師がいます。松本先生は、日本でも有数の膠原病やリウマチ性疾患の専門医で、日本リウマチ学会の専門医でもあります。多数の患者さんが桑名市内はもとより県内各地さらに県外からも診察に来られています。

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一方、整形外科の中瀬古先生も日本リウマチ学会の専門医であり、また骨粗鬆症(こつそしょうしょう)の診療にも熱心に取り組んでいます。これらの疾患では、内科や整形外科、リハビリテーション部など関連する診療部門のスタッフ全員が協力して患者さんを診ることが大切です。そのためこの4月には、東医療センターにおける内科の一分野として膠原病・リウマチ内科を独立させ、また整形外科の中にリウマチ科を新設しました。今のところ内科と整形外科は別々の場所で診療していますが、新病院が完成しましたら「膠原病・リウマチセンター」として一つの組織にしたいと考えています。来年4月からは松本先生の下で膠原病やリウマチ性疾患の勉強をしたいという後期研修医も加わることになっており、今後ますますの発展が期待されます。

 桑名市において急性疾患の診療を欠かすことはできませんが、このような慢性の難病に対する診療も大切です。膠原病やリウマチ性疾患あるいは骨粗鬆症などの疾患における三重県の基幹病院となるように頑張りますので、今後ともよろしくご支援の程お願い申し上げます。

(平成26年8月)

桑名市総合医療センター理事長  竹田 寛(文、写真)
竹田恭子(イラスト)

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