理事長の部屋

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7月:のうぜんかずら(凌霄花)

―真夏の太陽に天高く伸びる赤い花、その名は妖怪「のっぺらぼう」―


 今年の梅雨はほんとうに長かったですね。うんざりするほど曇天の日が続きました。梅雨明けは全国的に遅く、東海地方でも7月28日頃、平年より7日遅く昨年に比べたら19日も遅かったそうです。台風6号が三重県上空を通り過ぎて行った翌日の日曜日でした。
 梅雨が明けるや否や、打って変わって晴天の猛暑の日が続き、うだるような暑さ、桑名市総合医療センターへも熱中症で気分が悪くなって運び込まれる患者さんが続出しました。

2019年8月3日9時の「鯨の尾型」気圧配置  (天気図は気象庁のホームページより引用)

この猛暑の原因は、太平洋高気圧の勢力が強いことにありますが、特に今年のように太平洋高気圧が西日本に強く張り出し、朝鮮半島付近にも別の小さな高気圧がある場合には、日本付近を覆う等圧線の形がクジラに似て、日本から朝鮮半島付近がその尻尾になることから、「鯨の尾型」の気圧配置と呼ばれます。この時は西日本を中心に猛暑となりやすく、2013年8月12日には高知県の江川崎で日本の観測史上1位となる最高気温41.0℃が観測されました。

 さらに今年は次から次へと台風が到来していますが、このような気圧配置の時に台風は九州以南を通過することが多く、進路にあたる地方の方々はほんとうにたいへんだと思います。謹んでお見舞い申し上げます。

 しかし、それにしても暑いですね。昨年も暑かったですが、それに負けず劣らずの暑さです。日本の夏は暑いと云われますが、それは風が無い時に感じるもので、風が吹けば日中でも涼しく感じることが多いと思います。ところが今年の暑さは、風が吹いても涼しく感じません。熱せられ焼けた空気が体全体に直接吹きかかり、「ムッ!」と顔が上気して、息をすると熱風がそのまま肺へ入ってしまいそうで、思わず顔を背けてしまいます。ちょうど熱いサウナ室へ飛び込んだ時のようです。子供の頃、「熱風」という南米アマゾンを舞台にしたフランス映画がありました。女優さんが熱風に打たれて顔をしかめるシーンを覚えていますが、ほんとうに熱そうな風でした。その時「熱帯地方の風はそんなに熱いのか」と感心したのですが、その熱帯の風が今の日本に吹いているのです。地球温暖化でしょうか。

天に向かって伸びる「のうぜんかずら」の花

 そんな暑さをものともせず平然と咲いているのが、「のうぜんかずら」の赤い花です。真夏の赤い花と云えば、他に夾竹桃やカンナ、百日紅(さるすべり)などが思い浮かびますが、赤い色が鮮やかで、花も大きく、しかも背が高いものですからひときわ目立ちます。そこで今回は「のうぜんかずら」です。
 「のうぜんかずら」は、ノウゼンカズラ科に属するツル性の落葉樹です、平安時代に中国から渡来し、古くから日本人に親しまれています。初夏から夏が終わるまでの長い間、濃い赤や橙色の大きな美しい花をたくさん咲かせます。梅雨の間に満開に咲いた花は、梅雨明けの頃には散ってしまいます。このまま終わるのかと思っていましたら、夏の盛りに再び咲き出します。どうやら花のピークは、初夏と真夏の二度あるようで、嬉しい花です。ところで「のうぜん」とはどういう意味でしょうか。漢名では「凌霄花」と書きますが、凌霄(りょうしょう)が訛って「のうせう」となり、さらに「のうぜん」になったと云われています。凌霄とは、難しい漢語ですが、「霄(そら)を凌(しの)ぐ」、すなわち花が天高く伸びていく様を表したものです。また気根(空中に露出した根)を出して他の樹木や壁などに付着し、「つる」を伸ばして拡がっていきますので、「つる」を意味する「かずら」が付いています。

 

 さて花の構造はどうなっているのでしょうか。弁は5枚で、やや肉厚のザラザラした質感があります。「おしべ」や「めしべ」は何処にあるのでしょうか。ちょっと見たけではよく分かりません。

 

 花を下から見上げるようにしますと、白っぽい「おしべ」と「めしべ」が、上方の2枚の花弁にぴったり付着するようにして存在します。

 

 「おしべ」と「めしべ」の部分を拡大したのが、左上の写真です。中央に、先端の二分した「めしべ」の柱頭と、その直下に花柱がみえます。その両脇には花糸の長い「おしべ」と短い「おしべ」が対になって控えます。花糸の長い「おしべ」の先端の葯は左右から、二分した柱頭の下へ潜り込んでいます。
 右上の写真は、花弁も「おしべ」も落ちた後、「めしべ」だけが残ったものです。「めしべ」の形がよく分かり、柱頭の面白い形が印象的です。

「おしべ」と「めしべ」が上方の花弁に付着していることが、この花の表情に微妙な変化を与えます。

   下の写真をご覧ください。花を上から眺めますと、目も鼻も口も何も見えず、「のっぺらぼう」です。一方、下から見上げますと、「おしべ」や「めしべ」が中央に集まり、まるで「ひとつ目小僧」です。まさに昔から人気のある妖怪の世界ですが、このように見る角度によって表情の一変することが、この花の面白いところです。

うつむけば「のっぺらぼう」、あおむけば「ひとつ目小僧」、さながら妖怪ワールドです。

「のっぺらぼう」の妖怪たちが並んでいます。うつむき加減で無表情、陰気で何か不気味な感じがします。

顔を上げますと内部が明るく、口を大きく開けて笑っているようです。ほんとうは陽気な妖怪たちなのです。

「いない いない ばあっ!」 いたずら好きの妖怪でもあります。

夕暮れ時、山の端が赤く染まります。葉陰で怪しく光る「のうぜんかずら」、果たして何が起こるのでしょうか。

 

 

 ところで中学校の時、英語はどんな教科書で学ばれましたか。私たちが中学生だった1960年代前半には、New Prince Readers (開隆堂)やNew Crown(三省堂)などの教科書が使われていたと思います。New Prince Readersは1962年の初版から1986年の絶版まで25年間使い続けられた教科書で、私もこの教科書で学びました。そしてその25年の間、途中で3年間のブランクを除いてずっと収載され続けたのが、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)のMujina(むじな)です。改定の激しかった戦後の中学英語教科書において、同一教材、しかも日本の民話を題材とした物語が、長期間にわたって使い続けられたのは極めて異例のことだそうです.「むじな」とは日本の民話に登場する動物で、狐や狸と同じように人を化かす妖怪です。アナグマのことを指すそうですが、地方によってはハクビジンとも云われます。この物語は、「むじな」が目も鼻も口も無い「のっぺらぼう」の人間に化けて商人を驚かす怪談です。覚えていらっしゃる方も少なくないと思いますが、あらすじを紹介します。

昔、東京の紀国坂は夜暗くなると非常に寂しく、人々は坂を避けて遠回りしたそうである。その頃その辺りをよく歩いていた「むじな」に出会うのが怖いためである。これはその「むじな」に最後に出会ったという商人の話である。
 ある晩遅く、商人が紀国坂を上っていくと、濠のふちにかがみこんで激しく泣いている若い女がいた。身なりは綺麗で良家の娘のようであった。心配して声をかけたが、娘は長い袖に顔を隠したまま泣き続けている。それでも商人は何度も声をかけ、娘の肩にそっと手をかけた。すると娘は立ち上がって振り返り、さっと顔をひと撫ですると、目も鼻も口も無い「のっぺらぼう」になった。 

 商人は驚いて一目散に坂を駆け上って逃げた。振り返らずひたすら走り続け、ようやく遠くに蕎麦屋の屋台の灯りを見つけた。商人はほっと胸を撫でおろし、屋台に飛び込んで蕎麦屋の足元にひれ伏した。そして怯えながら叫んだ。「ああ!ああ!私は見た。女を見た。濠の側で。女は私に見せた。何を見せたかって!!恐ろしくてとても言えない!」。すると蕎麦屋は「へえ!女の見せたものは、こんなものだったかい?」と言いながら顔をひと撫ですると、顔は卵のようになり、灯りが消えた。

 この話で商人は、「のっぺらぼう」に化けた「むじな」に二度騙され驚かされます。このような話を「再度の怪」と云い、怪談の典型スタイルの一つだそうです。最後は落語の落ちのようですが、読者にとっては、妖怪から逃れて人間世界に戻り、ほっと一安心して話は落着するものと思っていたところ、再び妖怪の世界へ引き戻され、そのまま終わります。一瞬、現実と虚構の世界が交錯したままとなり、隣の人の顔を見るのも怖いような恐怖に襲われます。

 ラフカディオ・ハーンは、1850年、イオニア海に位置するギリシャのレフカダ島に生まれました。2歳の時にアイルランドへ移りますが、父母の離婚、母の精神病、父の死など不遇な少年時代を送ります。イギリスとフランスでカトリックの教育を受けますが、キリスト教および西洋文化に疑念を抱きます。19歳の時、単身でアメリカへ移住し、辛苦を重ねた後、ジャーナリストとして頭角を現し、文筆家としても認められるようになります。秘かに憧れていた女性ジャ-ナリストから日本の素晴らしさを聞かされ、自分でも古事記の英訳を読んだりして次第に日本文化に興味を抱くようになり、1890年4月、39歳の時に来日します。9月に松江の島根県尋常中学校へ英語教師として赴任し、翌年小泉セツ(節子)と結婚します。松江には1年2か月しかおらず。熊本へ移りますが、この頃の2年程の間に書かれたのが「日本の面影」です。ここには初めて横浜の土を踏んだ日のことから、自ら目にした日本の美しい風景や建物、民衆に伝わる伝承や風習などが、こと細かに愛情深く描かれています。なかでも松江へ向かう途中で滞留した山村での盆踊りには、深い感動を覚えたようです。46歳(1896年)で東京へ移り、東京帝国大学の英文学講師(夏目漱石の前任)に着任し、日本に帰化して「小泉八雲」と改名します。
 セツは日本語の読み書きができない八雲のために、全国に伝わる民話を集めては語り聞かせ、八雲の創作を助けます。こうして出来上がったのが、「むじな」のほか「雪おんな」「ろくろく首」「耳なし芳一」などの話を収めた「怪談(KWAIDAN)」で、1904年、54歳の時に米国で発刊されました。そしてこの年の9月、心臓発作のため他界します。

小泉 八雲

小泉 セツ

 「日本の面影」を読みますと、八雲が如何に日本の文化や民衆を愛していたか良く分かります。どうして八雲は、そんなに日本を好きになったのでしょうか。父はアイルランド出身の軍医、母はギリシャ人でしたので、「私には様々な民族の血が流れている。だから日本という異文化を理解できる」と八雲はよく口にしていたそうです。しかも子供の頃からギリシャ神教に親しんでおり、同じく多神教の日本神道を理解できたと云われます。一神教であるキリスト教に反発していたことも、拍車をかけたのかも知れません。そして何よりも、日本人、特に民衆のやさしさ、親切さ、素朴さ、礼儀正しさなどに強く心打たれていました。
 そして次のような警鐘も発しています。「今の(当時)の日本人、特に知識人は西洋ばかりに目が向いている。そのため古き良き日本の心、文化、伝統が失われつつある。私達は今一度振り返り古き良き日本を残さねばならない」。現代の日本でも、しばしば耳にする言葉です。子供の頃の日本を知る私達は、その再現は無理にしても、その記録を少しでも残しておきたいと思います。小泉八雲の愛した「日本の面影」を残すためにも・・・。

 さて病院の話題です。今回は、妖怪の好きな子供さん達が通う当センターの院内保育所の話です。その立ち上げのために三重大病院から駆けつけてくれた元三重大病院看護部長の飯田愛子さんに概説していただきます。
「ゆめっこ保育園」は、桑名市総合医療センターの職員の方々が利用されている保育園です。新病院が出来るまでは、東、西、南医療センターの3か所に分散されていましたが、新病院の開院とともに統合され、昨年改修工事を終えて9月26日より開園しました。
 0歳児のヒヨコ組 、1歳児のウサギ組 、2歳児以上のパンダ組の3クラスがあり、現在42名の園児と津田幼稚園児5名の子供たちが元気に過ごしています。春休みや夏休み、冬休みになりますと、他の幼稚園児の利用もあり、とても賑やかな保育園になります。夜間保育も月15回行われて、5名の子供さんが利用されています。
 本年度から園児の健康診断を小児科森谷部長にお願いしましたところ、ご多忙にもかかわらずご快諾いただき、早速5月に行っていただきました。今後も年2回お世話になることになっています。先生からは、数年前からイベントごとに子供たちにお菓子のプレゼントもいただいており、お心遣いにとても感謝しています。
 現在、保育園には園庭のないのが唯一の悩みです(最終工事が終了すれば設置される予定です)。したがってお天気の良い日は、散歩に出かけます。 幸い近辺には、精義公園や新矢田公園などの公園が幾つかあり、砂場でおままごと、ボール蹴り、ブランコや滑り台などで楽しく遊びます。また、桑名駅周辺で近鉄電車やJR、三岐鉄道などの電車を見ています。なかでも一番の人気は特急「しまかぜ」が通過する時とアンパンマンバスに出会った時で、可愛い歓声が上がります。寺町の三八市にも出かけたりします。
 園児たちは、友達と仲良く手をつないで、散歩を楽しみます。お日様の下、たくさん歩き、走り回り、元気いっぱいの子供達です。なによりの楽しみは、お弁当の時間です。みんなで「いただきます」のあと、残さないよう美味しくいただきます。
 スタッフは園長はじめ16名の保育士で、子供さんたちが安全で怪我なく楽しく過ごすことができるように注意しながら保育にあたり、誕生日会、夏祭り、運動会、ハロウィンなど様々な行事にも取り組んでいます。今後は、病児保育も始められるよう準備していきたいと考えています。 
 皆様から安心して利用していただける保育園を目指し、スタッフ一同努力して参りますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

ウサギ組の子供たち

お出掛けの様子

パンダ組の子供たち

                                    令和元年7月
                   桑名市総合合医療センター  竹田  寛  (文、写真)
                                 竹田 恭子(イラスト)

 

 

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