理事長の部屋

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12月 草紅葉(くさもみじ)

-冬の陽は光の魔術師、赤、黄、緑に輝く岸辺―

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       冬の小川の岸辺は、陽の光を浴びた「ちがや」や「すすき」の葉が黄や紅に輝き、鮮やかです

 今年の10月は雨や曇の日が続き、秋晴れの日は数えるぐらいしかありませんでした。本来なら秋の盛り、一年で最も美しい季節のはずですが、それを飛び越えていきなり晩秋になったような気がします。ところが11月に入って天気は一変、連日の晴天で、ことに12月はほとんど雨が降らず、空気は記録的に乾燥しています。しかも冷え込みは例年より早く、乾燥と寒冷というインフルエンザ・ウィルスにとって増殖しやすい条件が揃いました。これからインフルエンザがかなり流行するものと懸念されますので、くれぐれもご注意ください。
 12月は花が少なく、何を書こうかいつも困ってしまいます。それで樹木の紅葉になることが多いのですが、今年はそれも良くありません。実は今月は生きた化石と云われるメタセコイアの樹の紅葉にしようと思い、いろいろな場所へ出掛けては写真を撮っていました。

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 初夏の風に揺れる「ちがや」の白い穂

しかし10月に二度も台風が到来したせいでしょうか、どの樹も葉が少なくて透け透けで、紅葉はいま一つ見栄えがしません。今流行のインスタ映えしないのです。そこでメタセコイアは諦めて来年に回すことにしましたが、書くべき花が浮かんで来ません。「はて困ったなあ!?」とあれこれ考えながら、いつものように自転車でふらふらと走っていて、馴染みの小川の側に通りかかった時、あれ、岸辺が赤や黄色に輝いています。午後の少し傾きかけた冬の陽を浴びて、キラキラ輝いているのです。「ちがや」(茅萱)や「すすき」の紅葉や黄葉です。いわゆる草紅葉と呼ばれるもので、身近なところにこんなに美しいものがあることに気づいて嬉しくなり、即座に今月のテーマに決定しました。「ちがや」は日本全国どこでも見られるイネ科の野草で、5月から6月にかけて白い美しい穂を付けます。たくさんの白い穂が爽やかな初夏の風に揺れる姿は清々しいものです。  
 秋になるとその葉が紅くなります。下の写真は小川の岸辺に群れる「ちがや」ですが、川面に沿った帯状の部分は背が高く、夏から秋にかけて刈り取られなかったもので、葉は枯れてしまっています。

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一方、川面から離れた手前部分は刈り取られた後ですが、そこに新しく生えて来た若葉が右の写真のように美しく紅葉しています。

 

 

 

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「すすき」の葉は、「ちがや」の葉よりも一回り大きく、上の写真のように黄色から赤に変化していくものと、いきなり深紅に色付くもの(写真右)があります。

 

 

 

 

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 真っ赤に色付いた「ちがや」の細い葉。 伊勢海老のひげのようです。

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冬の陽を浴びる「すすき」の黄葉。いかにも暖かそうです。

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          冬の陽に透ける「ちがや」の紅葉(上)と「すすき」の黄葉(下)

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 江戸時代には、春の花見、秋の紅葉狩りと並んで冬には枯野見という風習があったそうです。左の絵は、現在の東京都豊島区雑司ヶ谷あたりの畦道で枯野見を楽しむ人々の様子を描いたものです。枯野の中で草紅葉を楽しんだり、枯れ尾花(枯れたすすきの穂)などに風情を感じたのでしょう。あるいは春を待ってじっと身を潜めて越冬する小さな草を見つけては喜んだのかも知れません。

幽霊の 正体見たり 枯れ尾花

怖い怖いと思っていたら枯れたすすきの穂まで幽霊に見える、という意味のことわざですが、元は江戸時代の俳人、横井也有(よこいやゆう)の詠んだ「化物の正体見たり枯れ尾花」という句に由来するのだそうです。
 枯野と云えば、芭蕉の有名な句に「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」があります。芭蕉の辞世の句と云われていますが、反論もあります。それについては後ほど述べるとして、松尾芭蕉は本居宣長と並ぶ三重県出身の著名な文人ですが、私自身、その生い立ちや生涯に関してほとんど知識がありませんでした。どんな顔をしていたかさえ浮かんで来ないのです。
そこで今回芭蕉について少し勉強しました。
 松尾芭蕉は、1644(寛永21)年伊賀国で、土豪出身の父、松尾与左衛門と、百地家出身の母、梅との間に次男として生まれました。母方の祖父は、伊賀流忍者の祖と云われる百地丹波であり、これが芭蕉忍者説の根拠の一つになっています。若くして伊賀国上野の藤堂家に仕え、主君の良忠とともに京都の北村季吟に師事して俳諧の道に入ります。良忠の死後仕官を退いて俳諧の修業に専念し、30歳の頃に江戸へ下ります。幾つか居所を経て深川に落ち着き、そこで世俗から距離を置いて句作を続け、自らの俳諧を深めていきます。しばしば旅にも出掛け、「野ざらし紀行」「おくのほそ道」「猿蓑」などを著わし、ついにはわび、さび(侘、寂)の精神を結晶させた芭風と呼ばれる芸術性の高い俳諧を完成します。
 芭蕉が死んだのは1694年50歳の時で、命日は旧暦の元禄7年10月12日です。ここで問題となるのが最初に登場した辞世の句です。

旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る

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芭蕉は江戸へ下った後もしばしば伊賀へ帰省していますが、元禄7年にも5月に帰っています。9月に大坂へ上って弟子たちの不仲の仲裁に入りますが、下旬より体調を崩します。 10月5日に御堂筋の「花屋」へ移って弟子達の看病を受けますが、その甲斐もなく12日には息を引き取ってしまいます。その4日前の8日に詠んだのがこの句で、「病中吟」という前書きがあります。病の床で詠んだという意味でしょうか。句を直訳しますと「旅先で病に倒れた私は、夢の中でまだ枯野をかけ廻っている」となりますが、その一般的な解釈は「私は夢の中でまだ枯野をかけ廻っているが、病に倒れたためもう旅に出ることが出来ない」という芭蕉の辛く悲しい気持ちを詠んだものとされています。

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 近鉄伊賀線上野市駅前の芭蕉像

しかしわび、さびの精神を極めた芭蕉ともあろう人が、辞世に際してこのような自身の情けない心情を詠うだろうか、しかも「病中吟」というような前書きまでつけて、という疑問が浮かびます。実はその翌9日、すなわち死の3日前に、次の句を詠んでいます。

清滝や 波に散込 青松葉

 

清滝という言葉に芭蕉の清澄な心境が表されているというのです。しかしこの句は、この年の夏に詠んだ「清滝や浪に塵なき夏の月」の改作であり、辞世の句をそんな安易な方法で作るだろうかという疑問が残ります。

 一方、芭蕉忍者説は次のような根拠に基づいています。
1)母方の祖父が伊賀忍者の祖である百地丹波であること
2)忍者は僧侶や山伏などに扮することが多く、俳諧師と称しても不思議でないこと
3)奥の細道の旅は、幕府の命で仙台藩を偵察するためのものであり、旅の豊富な資金は幕府から出ていて、しかもその移動距離と速度は常人のものを逸していること
 その真偽については不明ですが、いずれにせよ芭蕉が優れた芸術家であったことは間違いありません。忍者であれば、さらに面白い気もしますが、少しドラマ的でしょうか。

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 さて桑名市総合医療センターの新病棟が、いよいよ平成30年4月1日開院し、5月1日より外来診療が開始されます。日本でもほとんど例を見ない市民病院と民間病院との統合による新病院の診療が始まるのです。新病院の主な特徴を列記します。

♦ 新病院は入院棟(10階建)と外来棟(5階建)から成り、両棟を上空通路で連絡します。新入院棟の病床数は321床ですが、平成30年末に完成予定の改修棟に79床が開設され、計400床になります。
♦ 桑員地区の急性期医療を担う中核病院として、近隣の医療機関や診療所と協力しながらその役割を果たします。特に救急医療、周産期医療、小児の救急や慢性疾患の診療の充実に努め、災害拠点病院をめざします。
♦ 1、2階はほとんど駐車場で、津波などの災害に備えます。入院棟では、3、4、5階は手術室や検査室、救急病床、6階は周産期と小児病床となります。7階から9階は一般病床ですが、循環器、消化器、脳卒中など臓器別に内科と外科が一緒になって診療にあたるセンター化された病棟や、リウマチや腎臓病などの慢性疾患の病棟となります。
♦ 常勤医師数が約120名と大幅に増え、診療機能が全体的に拡充されます。桑員地区で初めて導入される放射線治療や核医学診断装置により、「がん」治療や脳卒中、認知症などの診療レベルの向上に努めます。
♦   患者給食の改善や待ち時間の短縮など、院内環境の向上に努めます。
♦ 三重大学医学部附属病院と緊密な連携を保ち、スタッフの教育や充実に努めます。

 平成30年1月から3月は病院の引越し作業などで忙しくなりますので、この連載もひとまず休みにさせていただきます。同時に、ここ2年分のブログをまとめて「続・理事長の部屋から」として刊行するための編集作業に入ります。4月、新病院の開院とともに連載も再開します。次回は新病院でお会い致しましょう。平成30年も良い年でありますよう心よりお祈り申し上げております。

平成29年12月
桑名市総合医療センター理事長 竹田 寛  (文、写真)
竹田 恭子 (イラスト)

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