理事長の部屋

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5月 桜

―かすみか雲か、束の間の桜狂騒曲―

団地の縁の斜面に立つ満開の染井吉野

 今年の桜は、実に慌ただしかったですね。つぼみが膨らみ始めたかと思ったら、あっという間に満開になり、いつの間にか足早に散って行ったような気がします。それも西日本から東日本まで、日本海側の地方を除いてほとんど時間差なく、いっせいに咲いていっせいに散って行きました。三重県内でもそうです。桑名でも津でも伊勢でも、同時に満開となりました。早くから今月は「桜」にしようと決めていましたので、あちこちでいっせいに満開となった桜に、驚き焦りました。どれもこれも一番美しい時に写真を撮りたいと欲張ったからです。時間に追いたてられるようにして走り回りました。しかし焦るせいでしょうか、じっくり落ち着いて写真が撮れず、思い描いていたようには撮れません。すると他の桜が気になります。「去年あそこの桜が綺麗だったから行ってみよう」と急いで駆けつけますと、既に散り始めていました。そこでまた元の桜に戻りますと、こちらは葉桜になっています。そんなことの繰り返しで、終わってみれば満足な写真も撮れず、気もそぞろだけの一週間でした。新病院の開院を目前に控えた大切な時に、桜のことばかり考えていて・・・という後ろめたい気持ちもありましたが、仕方ありません。余りにもいっせいに見事な満開となり、そして一気に散って行った今年の桜ですから。時の過ぎゆくのが惜しまれました。まさに在原業平の心境です。

世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし

 それにしても満開の桜は何と美しいのでしょうか。ふくよかで気品があって、見るものを圧倒するような迫力があるのに、決して自己主張や自己顕示が強い訳ではありません。控え目でいながら確乎とした存在感があります。殊に樹齢何百年と云う古木や名木には、何とも言えない風格があり、洗練された美しさがあります。長い年月をかけて太くなった幹や曲がりくねった枝が創り出す樹形には、老成したもののみが有する無駄のない調和があります。そこに毎年、嘘のように若々しく清純な淡い桃色の花がいっぱい咲くのです。この好対照、生命の神秘を感じます。しかしそのような特別な桜でなくても、私達の周りには、どれも十分に美しい桜がたくさん咲いています。単独で咲いていても、群れになって咲いていても、どの木もほんとうに美しいのです。名もない桜ですが、静かに穏やかに咲いています。
 
ここで高校時代に習った三好達治の詩を思い出しました。

甃(いし)のうへ

        三好 達治

あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音(あしおと)空にながれ 
をりふしに瞳(ひとみ)をあげて 
翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍(いらか)みどりにうるほひ
廂(ひさし)々に
風鐸(ふうたく)のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃(いし)のうへ

 若い頃私は友人や職場の同僚達とよく花見に出かけました。酔いが回って来るうちに談笑する声は大きくなって来ます。そんな時、ふとライトアップされた桜を見上げますと、「桜は酔ってないなあ、笑ってないなあ」と感じました。「私達が気分良くなっているのですから、桜も喜んでくれても良いのになあ」とも思いましたが、桜たちは我々の饗宴をよそに平然としています。拒絶することなく受け入れることもなく、ただ超然と落ち着いているのです。その不思議、花見に行く度に酔っ払って朦朧とした頭で、いつも考えたものでした。

3月28日午前10時頃撮影

3月30日午前7時頃撮影

 上の写真は、自宅の近くにある小高い丘の上に立つ山桜の満開の様子を、下から見上げて撮影したものです。左はほぼ満開になった直後、右はその2日後に撮影したものですが、同じ満開でも、日が経つに連れて見え方が変わって来ます。満開となった直後には、まだ花が完全に開き切っていないのか、あるいは蕾のものもたくさん残っているのか、全体に量感に乏しく、花や枝の隙間から青空が透けて見えます。しかし2日経ちますと、桜の花の群は枝ごとに膨らみ、全体としてふっくらとしてボリューム感が増しています。満開の桜のふっくらとした量感、これは他の木には見られないように思われます。
 今年は桜の咲き始めた322日から44日までの14日間、晴天が続き気温も高かったものですから、桜の花は一気に満開になり、あっという間に散ってしまいました。次ページ上の写真は43日に撮影したものですが、前日より気温が上昇し夏日近くにまでなりました。小川に沿って大小の桜が並んで咲いていますが、空はよく晴れて雲一つないのに、白っぽく見えます。満開の桜も、橋を渡る自転車の人もぼんやりしています。遠くの山もほとんど見えません。

私は黄砂が飛んで来たのかと思いましたが、ニュースではそのような報道はありません。春霞(はるがすみ)のようです。春霞とは、春に霧(きり)や靄(もや)などによって景色がぼやけて見えることで、大気中の水滴が原因と云われています。視界が1km未満であれば霧、それ以上ある場合を靄と云います。原因はいろいろあるようですが、急激に気温が上がったために発生したのでしょうか。気温の上昇により地表付近の水分が温められ水蒸気となって上昇し、上空の冷気で冷やされて霧や靄になったものと考えられます。

 4日には、松阪市の郊外にある山麓へ出掛けました。例年このあたりの山々では、春になると新緑の芽吹き始めた山肌に、うす桃色の満開の桜が点在し、実に美しいのです。それで今年も行ってみたのですが、ここでも桜は早くから咲き始めたようで、既に半分以上散っていました。

この日はとうとう最高気温が25度を上回り夏日となりました。前ページ下の写真をご覧ください。桜はまだ何本か咲いていますが、空は真っ白で色とりどりに美しいはずの山肌もぼんやりと霞んでいます。
 右の写真は、山腹にある満開の桜の木をズームで撮影したものです。ぼんやり霞んだ満開の桜の奥に小さな社があり、幻想的な情景となっています。
 翌朝、霞が晴れましたのでもう一度訪ねました。昨日とは打って変わって、空は真っ青で山肌の緑や黄緑のモザイク模様がくっきり見えます。近くのお寺の境内には、無縁仏でしょうか、たくさんの墓石が積み上げられていて、そのてっぺんには地蔵さんが何気ない顔をして立っていました。季節は春から初夏へと確実に移り変わりつつあります。
 例年であれば、せっかく桜が咲いても雨が降ったり寒の戻りなどで花冷えとなり、桜には気の毒な日も多いのですが、今年は記録的に晴天で高温の日が続いたため、春霞が見られたのでしょうか。ともあれ、せわしない桜狂騒曲の一週間でした。

 霞と云えば、私達が小学生の頃、「かすみか雲か」と云う歌を習いました。明治時代前半、政府は音楽教育の西洋化を急ぐために、欧州各国から民謡などを輸入して日本語の歌詞を付け、文部省歌として小学校で歌わせました。今でも広く歌われている「蛍の光」(スコットランド民謡)や「庭の千草」(アイルランド民謡)などがその代表的な曲ですが、「かすみか雲か」も1883年(明治16年)にドイツ民謡を輸入したものです。

 

かすみか雲か
          作詞 勝 承夫

     かすみか雲か ほのぼのと
      野山をそめる その花ざかり
桜よ桜 春の花
               

 梶井基次郎の書いた「桜の樹の下には」という短編小説があります。満開の桜の美しさを、独特の表現で著わしたものですが、冒頭の「桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!」という句は、一瞬ギョッとさせられますが有名です。小説の一部を引用します。

 

桜の樹の下には

            梶井基次郎

 桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。何故(なぜ)って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
     (中略)
 いったいどんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。それは、よく廻った独楽(こま)が完全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱(しゃくねつ)した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲(う)たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。

 梶井基次郎(1901-32年)は、明治34年大阪に生まれましたが、9歳の時父の転勤で鳥羽市へ移住し、海のある自然の中で健康的な小学生時代を過ごします。13歳で再び大阪へ戻り、大阪府の北野中学(現北野高校)へ進学しますが、梶井の兄弟らは祖母の罹っていた結核に感染し、梶井自身も17歳の頃に発病します。その後旧制の京都三高へ進み、そこで生涯の友となる津市出身の小説家、中谷孝雄と知り合います。初めは理系志望でしたが次第に文学に傾倒して放蕩生活を続け、時には泥酔して暴力事件まで起こしたりします。一度失敗した卒業試験も翌年には仮病を装って何とか合格し、東京大学文学部へ入学します。そこで同人誌「青空」を発行して、代表作である「檸檬」「城のある町にて」などの著作を発表しました。しかし結核は徐々に進行し、転地療法を繰り返しますが改善はみられず、27歳の時に大学も辞めて大阪に戻り養生します。しかし病の進行は抑えられず31歳の若さで夭折しました。死の一年前、梶井の寿命の長くないことを案じた友人達の尽力により、初の創作集「檸檬」が刊行されますが、そのうちの一人が、「甃のうへ」を書いた詩人三好達治です。
三好は「青空」の同人で、こんなところで梶井基次郎との結びつきがあるとは知りませんでした。

 「檸檬」は三高時代の体験をもとに書かれた小説です。結核による微熱と放蕩生活の鬱屈に悩んでいた主人公は、瀟洒な八百屋で買った檸檬の冷たい触感と適度な重量感に、今までにない快感を覚えます。その檸檬を巡って変化する意識や心理の流れを絵画的な表現も混じえて鮮明に描いています。
 「城のある町にて」は、梶井が23歳の時、3歳の異母妹を結核性脳膜炎で亡くしますが、その哀しみを癒すため松阪市の姉夫婦の家へ滞在した一夏の物語です。城の上から見はるかす松阪市の情景描写が素晴らしく、生き生きと描かれる姉夫婦や叔母、従妹、姪などの善良な人達の日常が、結核を病み都会生活に疲れた主人公の心を癒します。
 梶井基次郎は、作家としての活動時間は短く作品の数も多くありませんが、その短編の数々は日本文学史上極めて貴重なものとして、今でも高い評価を受けています。
 
三島由紀夫の梶井基次郎評を引用致します。
 いかなる天変地異が起こらうが、世界が滅びようが、現在ただ今の自分の感覚上の純粋体験だけを信じ、これを叙述するといふ行き方は、もしそれが梶井基次郎くらゐの詩的結晶を成就すれば、立派に現代小説の活路になりうる。

三島由紀夫「現代史としての小説」

 学生時代、私は梶井基次郎が好きでした。その時購入した全集が今でも本棚の片隅に残っています。表紙はすっかり変色していますが、青春の思い出が籠った大切な全集です。
 
若くして結核に斃(たお)れた梶井基次郎は、珠玉の短編を残して桜のように散って行ったのかも知れません。

さて病院の話題です。前回は新病棟の概要について記しましたので、今回は新入院棟を少し詳しく紹介致します。

◆  12階は駐車場です
放射線治療室、核医学検査室以外はほとんど駐車場で、災害時の浸水に備えます。
◆ 3階にあるエントランス・ホールが起点です
来院された方は正面玄関横にあるエレベーターにより3階エントランス・ホールまで上がっていただきます。そこには総合受付があり、また他院との患者さんの紹介や逆紹介などをお世話する地域医療センター、入院時に必要な手続きを行う入院センターなどが配置されています。さらに近くには、喫茶室やコンビニもあります。また3階には、  入院棟、上空通路、外来棟をほぼ直線的に貫通する太い廊下(ホスピタル・スパイン)が設置されていて、患者さんや職員は、ここを通って外来棟や手術室、検査室、入院病室などを行き来します。
◆ 34階では様々な検査を受けることができます
CTやMRI検査を受ける放射線部、胃カメラや大腸ファイバー検査などを行う光学医療診療部、血液検査や心電図検査などを担当する検査部などが入ります。
◆ 救急患者さんは3階の救急外来へ来ていただきます
さらに入院が必要であれば、専用のエレベーターにより5階の救急病床へ運ばれます。
◆ 5階には重症患者さんを管理する重症病床が配置されています
同じ階に手術室と救急病床がありますので、大きな手術を受けた後の患者さんや、重症の救急患者さん、あるいは入院中に状態の急変した患者さんらを管理します。
◆ 6階は周産期、小児、女性病棟です
産科・周産期科、小児科が入り、ほかに婦人科や乳腺外科などの女性患者さんが入院できる病棟です。また周産母子センターでは、小児科医と周産科医が力を合わせて重症の胎児や新生児の治療に当たります。
◆ 7階から9階は一般病床で、病棟配置は臓器別センター化となります
北と南病棟に分かれ、それぞれ40床から成ります。循環器内科と心臓血管外科が入る循環器センター、消化器内科と消化器外科、口腔外科が一緒の消化器センター、脳神経外科と脳神経内科が入る脳卒中センターなど、臓器別にセンター化された配置となります。このように心筋梗塞や脳卒中、消化管出血などの患者さんを内科医と外科医が一緒に診ることにより、迅速で適切な診断と治療が可能となり、救急患者さんにも十分対応できるようになります。また整形外科と膠原病リウマチ内科が入る病棟や腎臓内科はじめ他の病棟においても、急性や慢性疾患の治療に力を注いでいきます。

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桑名市総合医療センター理事長 竹田 寛(文、写真)

                            竹田 恭子(イラスト)

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