理事長の部屋

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3月:土筆

―つくづくし 遠い昔の 人のよう―

にょきにょき伸びる土筆の群、菜の花の黄色のかなたには蒼い山が霞みます。

 いよいよ日本の新型コロナウイルス感染は、第4次の感染拡大期に入ったようです。3月初めには1,000人を下回るまでにもなった全国の新規感染者数は、3月末頃より再び増加に転じ414日には4,312人、死者も34人になりました。1日の感染者数が4,000人を超えるのは128日以来のことだそうです。45日からは、大阪、兵庫、宮城にまん延防止等重点措置が発出され、さらに東京、京都、沖縄へも拡大されました。今回は特に大阪、兵庫で感染者が急増していずれも過去最高を更新しており、大阪では1,000人を超えて東京よりも多く、いつ緊急事態宣言が出されてもおかしくない状況となっています。​

図1 ワクチン接種率の高い国

 
 一方、医療従事者から開始されたワクチン接種、私は既に2度の接種を終えました。4月に入って一般の高齢者の方への接種も始まり、徐々に進行している日本のワクチン接種ですが、世界にはワクチン接種の進んでいる国も少なくありません。そこで各国におけるワクチン接種率と感染状況を比較してみました。図1は、ワクチン接種率の高い国の一覧です。最も高いのはイスラエルで、1回接種60.4%2回接種した人も54.79%となっています。ついでイギリスですが、国の政策により1回接種を優先して行っているため、1回接種は45%前後になっていますが、2回接種は5%ほどしかありません。次いでアラブ首長国連邦、チリが続き、5番目の米国で1回接種率30%近くになっています。一方の日本は、10.65%20.05%で比較になりません。

図2 各国の新型コロナ新規感染者数の推移(4月1日現在)

 図2は、世界各国の人口100万人あたりの新規患者数(1週間の平均)を比較したものです。ワクチン接種率の高い上位5か国のうち、イスラエル、英国、米国での患者数は激減しています。チリも同じように1月以降減少していましたが、2月に入ってから再び急増しました。これはどういうことでしょうか。NHKのニュースによりますと、接種者が500万人を超えた時点で外出制限などの規制を緩めたからだそうです。集団免疫ができて感染者数が自然に減少していくためには、ワクチン接種の済んだ人が70%を超えなければならないそうですが、チリではせいぜい30%、規制を緩めるのが早過ぎたのです。日本の接種率はまだまだですが、私も2度の接種が終ったからといって気を緩めず、今まで通り猫をかぶったように大人しくしています。
 (なお図1,2のグラフは、いずれも中日新聞202143日の記事より引用しました。)

 今回の拡大の主役を演じているのが変異型ウイルスです。世界中で猛烈な勢いで増え続け、感染力が強く重症化する率も高いのではないかと恐れられています。この変異型ウイルス、前回も少し触れましたが、今回も最新の知見をまとめてみたいと思います。

表1 変異ウイルスの特徴(NHKのホームページより引用

 表1をご覧ください。NHKのホームページから引用したものですが、WHOが認定している「イギリス型」「南アフリカ型」「ブラジル型」の変異ウイルスの特徴をまとめたものです。変異の「N501Y」とは、ウイルスの表面にある突起の蛋白(スパイク蛋白)の501番目のアミノ酸がN(アスパラギン)からY(チロシン)に置換されていることを意味します。同様に「E484K」は、スパイク蛋白の484番目のアミノ酸がE(グルタミン酸)からK(リシン)に置き換わったものです。イギリス型の変異ウイルスはN501Yの変異を有し、南アフリカ型やブラジル型の変異ウイルスは、N501YE484Kの双方を持っています。大阪や兵庫など関西ではイギリス型の変異ウイルスが80%近くを占め、東京ではE484Kの変異を持つ数種のウイルスが増えています。感染力はいずれの変異型も高いのですが、懸念されるのは重症化率です。前号でイギリス型は重症化率が高いと書きましたが、表1でもリスク上昇の可能性が高いとなっています。しかし最近の論文では、イギリス型の変異ウイルスの重症化率や死亡率は従来のものと変わらないと報告しているものもあります。ほんとうはどうなのでしょうか。

 私たちの病院でも4月に入ってからコロナ患者が増え、常時1014人入院しています。そのうち80%近くは変異型ウイルス感染で、すべてイギリス型です。診療を担当している 医師によれば、「症状の無い患者さんが入院して来た場合、従来のウイルスではほとんどそのまま経過して退院して行ったが、イギリス型変異ウイルス患者さんでは、同じように治療しているのに肺炎が進行して人工呼吸器を使用せざるを得ないケースが相次いでいる」とのことです。関西や埼玉県などの病院からも同様の報告がなされており、イギリス型変異ウイルス感染では、肺炎などが重症化しやすい傾向にあるように思われます。

 ワクチンの効果に関しましては、前回も記しましたようにファイザー社のワクチンはイギリス型変異ウイルスに十分効果があります。ということは、ファイザー社のワクチン接種をコツコツと進め、一日も早く国民の7割以上の人の接種が終るようにすることが、この未曾有の感染を収めるために最重要ということになります。とにかく皆さん、ワクチンを受けましょう。それが何よりも大切です。

 さて今月は、里山に春を呼ぶ土筆です。陽射しに春の明るさが増し始める頃、野原や田圃の畔で土筆を見つけますと、片っ端から摘んではレジ袋いっぱいにして家へ持って帰ります。少し面倒な「はかま」取りも済ませてさっと水洗いし、油を引いたフライパンで醤油味に炒めます。まさに旬の贈り物、若い土筆の房(頭)のほろ苦さがたまりません。最高のビールのつまみです。でも今年は違いました。土筆の写真を撮った後、また撮りに来るからとそのままにしておきますと、誰かが摘んでいったり、いつの間にか枯れてしまったりして、とうとう採る機会を失ってしまいました。「旬のものを食べると75日長生きする」と言われますが、残念なことをしました。
 

 

土筆の周りに群れるスギナ

同じ地下茎から土筆とスギナが出ます

 土筆の側には杉の葉に似たスギナがよく生えています。「土筆 誰の子 スギナの子・・・」と歌われるように、私は土筆が出て枯れた後、同じ場所にスギナが生えて来るものと思っていました。ちょうど乳歯と永久歯のようにです。ところが実際は、スギナと土筆は別々の所から出ていて、それぞれの根は地下茎で結ばれています。スギナは葉緑素を持っていて光合成により栄養分を作りますので栄養茎と呼ばれ、生成された栄養分は地下茎で蓄えられます。一方の土筆は、胞子を放出するため胞子茎といわれます。スギナはシダの仲間トクサ属の植物で、土筆はその一部で生殖部を担当し、栄養部を担当するスギナと分業しています。多くの植物では、花が咲いて種ができ子孫を残します(種子植物)が、スギナなどのシダやキノコ類では花は咲かず、胞子により子孫を残しますので胞子植物と呼ばれます。   

 胞子は土筆の頭の部分より放出されますが、どのような構造になっているのでしょうか。
土筆の頭は、胞子嚢(のう)床と呼ばれる六角形の板のようなもので亀の甲羅のようにびっしり覆われています。この胞子嚢床の裏には、胞子を入れる胞子嚢がたくさん付着しています。胞子を放出する前は、胞子嚢床の隙間から緑色の胞子の詰まった胞子嚢を覗き見ることができます。胞子を放出した後、胞子嚢床は廂(ひさし)のように開き、胞子が飛び去って白くなった胞子嚢がたくさん垂れ下がっています。

 

 スギナの枝には、湿気の多い朝などに水滴がつくことがあります。上の写真は、夜来の雨の上がった翌朝早く撮影したものですが、スギナの枝に夥しい数の水滴がついています。スギナの枝の先端には水気孔があって、根に水分が多い時や空気中の湿度が高い時に、体内の水分を放出して水分調節をするそうです。

スギナの枝の先端に付着する水滴

先端部の拡大写真。とんぼの目玉のようです。

朝露のスギナに囲まれる土筆たち

 

やっと芽が出た土筆の子


つくづくし どこにいるやら 春うらら


にょきにょき土筆がなんぼうでもある   山頭火

 

 土筆は古くから日本人に親しまれ、源氏物語では宇治十帖の早蕨の巻に登場します。父も姉も亡くし寂しく暮らす中君の元に、山の阿闍梨から蕨(わらび)と土筆(つくづくし)が届けられます。

 阿闍梨のもとより、
年あらたまりては、何ごとかおはしますらむ。御祈りは、たゆみなくつかうまつりはべり。今は一所の御ことをなむ、やすからず念じきこえさする。
など聞こえて、蕨、つくづくし、をかしき籠に入れて、「これは童べの供養じてはべる初穂なり」とてたてまつれり。(早蕨の巻)
阿闍梨のもとからは、「年が改まりましてからは、どうしていらっしゃいますか。御祈禱は怠りなく勤めております。今はただあなた様のお身の上が案ぜられまして、そのことばかりをお祈り申しております」などと申し上げて、蕨や土筆を風流な籠に入れて、「これは童たちが愚僧に供養してくれました。そのお初穂でございます」とお贈りして参ります。
                                                   (谷崎潤一郎 新々訳源氏物語巻9 中央公論社 昭和48年刊より)

 それ以後の日本の古典文学の中に土筆を扱ったものがないか、ネットで探してみましたが意外と少なく、明治にまで下らねばなりませんでした。正岡子規(1867-1902年)が48首に及ぶ土筆の句を書いていて、その中からの三首です。

   

 

    ふむまいそ小道にすみれつくつくし

    ふむまいとすみれをよけてつくつくし

    ふむまいとよけた方にもつくつくし

正岡子規

 子規と大学時代からの親友であった夏目漱石(1867-1916)にも土筆の句があります。

夏目漱石

 

 

土筆物言わずすんすんとのびたり

 子規と漱石は同じ1867(慶応3)年、江戸から明治へ移行する年の生まれです。子規は 松山、漱石は東京の出身で、17歳で入学した東京大学予備門で知り合い、寄席が共通の趣味であったことから親交が深まります。その後二人は東京帝国大学文科大学へ進学、子規は 哲学科、漱石は英文科でした。漱石は卒業後、愛媛県の松山中学の英語教師として赴任しますが、その頃、大学を中退して日清戦争の従軍記者となっていた子規が帰国途中に喀血し、療養のため松山へ帰省します。しかし子規は実家へは戻らず、漱石の借家へ52日間も逗留し、勝手にかば焼きを注文しては食べ、支払いは漱石というようなこともあったとのことです。この時、子規は漱石に俳句を教えたといわれます。早熟で自己主張のはっきりしている子規に対し、それを黙って受け入れた漱石、子規は同じ歳の漱石をいつも弟扱いし、二人で道を歩いていても、いつも子規の思う方向へ向かったそうです。

 
 この二人とよく似た間柄なのが、天才歌人石川啄木(18861912年)と、アイヌ語研究で有名な言語学者、金田一京助(18821971年)です。二人は岩手県の盛岡中学校(現在の盛岡一高)の同窓生で、金田一は4級下の啄木に、文学とくに短歌の手ほどきをしたといわれます。

金田一京助と石川啄木

 また金田一は、放蕩癖の強い啄木の生活を支えるために生涯にわたり金銭的な支援を行いました。金田一は結婚した後も、啄木に無心されると家財道具を質に入れるまでして金を貸しますが、借りた金で啄木は遊蕩三昧を繰り返したそうです。ご子息の金田一春彦氏の回想によれば、啄木が家へやって来た時は、妻や子らは別の部屋へ隠れ、ただひたすら「早く帰って欲しい」と祈っていたそうです。それこそ箒を逆さまにして壁に立てかけていたのかも知れません。

 子規は34歳、啄木は27歳で夭折します。天才肌で若くして世を去った子規と啄木、それに対し漱石と金田一は秀才で、後にそれぞれの道で大成します。天才肌の人というのは、見るからに常人とは異なった風貌なり雰囲気を持っていて、人を魅了するものがあります。漱石と金田一も私たちからみればとんでもない天才ですが、その二人にしても子規と啄木は別格だったのでしょう。二人の記した回想録には、若き日に彗星のように輝いて散って行った天才に対する格段の思慕と、一緒に過ごした青春時代の‘たまゆら’を偲ぶ想いが込められています。そしてそれを読む私たちは、スケールははるかに小さいながらも、自分たちのかけがいのない青春に重ね合わせます。 

つくづくし 遠い昔の 人のよう

(俳句では、つくづくしは土筆のことで春の季語、つくつくしは法師蝉で秋の季語となっていますが、子規は両者とも土筆として使っています。なお京都では土筆のことをつくつくしとも言うそうです。)

                                  令和3418

                桑名市総合医療センター理事長  竹田  寛 (文、写真)
                                竹田 恭子 (イラスト)

 

 

 

             

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