理事長の部屋

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7月 馬鈴薯(ばれいしょ)の花

 
 

  

 

―梅雨の晴れ間、おしゃべりおばさん達の昼下がり―

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(※画像クリックで大きな画像が見られます)

 東海地方では6月8日梅雨入りしました。平年並みの早さということだそうです。これからしばらくうっとうしい日が続くかと思うと少々うんざりします。ところで上の写真、梅雨空とは裏腹の明るい青空の下で、黄色の大きな突起を持つ「うす紫」の花が嬉しそうに咲いています。何の花だかお分かりですか?これが馬鈴薯(ばれいしょ)すなわちジャガイモの花です。馬鈴薯とは少し古めかしい言葉ですが、私はこの語感が好きでどうしても捨てがたく、ここでは敢えて馬鈴薯と云う言葉を使わせていただきます。
 馬鈴薯の花は、花びらは可憐な淡い紫色をしていますが、真ん中に不釣合いに大きな黄色い塔があるものですから、滑稽とも云うか、愛嬌たっぷりの顔付きをしています。昔子供達に人気のあったアメリカのテレビ番組「セサミ・ストリート」に「ビッグ・バード」という黄色い大きな嘴(くちばし)を持った鳥のキャラクターが登場しました。大きな体で間抜けな言動をするものですから子供達の人気を集めましたが、ひょうきんな表情がよく似ています。馬鈴薯は、茎の先端に10数個の花が四方八方いろいろな方向に咲きます。いずれの花も地面を見詰めるかのように、うつむき加減に咲きますので、その姿は、ちょうど沖縄の鳥「ヤンバルクイナ」が首を傾げながら、地面のあちこちに散らばった餌を、目を凝らして探しているようにもみえます。「ヤンバルクイナ」は1981年沖縄本島で発見され、絶滅危惧種の鳥として国の天然記念物に指定されました。
 この馬鈴薯の花、1か月程前に郊外の畑で撮影したものです。いつものように自転車で走っていますと、遠くにうす紫色の花がぎっしり咲いている畑があります。「何の花かな?」と思い近寄ってみますと馬鈴薯畑でした。初めて見る馬鈴薯の花畑、新鮮な驚きでした。馬鈴薯と云えば北海道、7月、羊蹄山の麓では広大な馬鈴薯畑が満開になるそうです。富士山のように美しい山と麓一面に拡がる馬鈴薯の花、さぞかし壮観でしょうね。それで今月は、うっとうしい梅雨空を忘れさせてくれる馬鈴薯の花を取り上げることにしました。

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 馬鈴薯はペルー南部のアンデス地方が発祥とされ、インカ帝国時代の15世紀から16世紀頃ヨーロッパへ伝わったと云われています。日本へは17世紀はじめにオランダから伝わったそうです。現在では、小麦、水稲、大麦、とうもろこしと並んで世界の五大食用作物の一つに数えられています。

 

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馬鈴薯の花

茄子の花

茄子の花

 

白い馬鈴薯の花

 馬鈴薯はナス科ナス属の植物で、花は茄子(なす)によく似ています。花弁は5枚で、中央の黄色い突起は、中心の「めしべ」を5本の黄色い「おしべ」が取り囲こんで作られたものです。写真では「めしべ」の先端、緑色の柱頭がみえます。馬鈴薯にはたくさんの種類があり、日本では20種類ぐらい栽培されているとのことです。冒頭の写真のうす紫色の馬鈴薯は「キタアカリ」という品種ですが、隣の畑には白い馬鈴薯の花が咲いていました。

 

 

「さつまいも」の花

「さつまいも」の花

 

 同じ食用の芋としてなじみの深い「さつまいも」は、ヒルガオ科サツマイモ属の植物で朝顔の仲間です。ですからその花は朝顔によく似ています。馬鈴薯は茄子、「さつまいも」は朝顔の仲間とは面白いですね。食用となる「いも」の部分は、馬鈴薯では地下にある茎(地下茎)が、「さつまいも」では根(塊根)が肥大したものです。 

 

 

 馬鈴薯      さつまいも

馬鈴薯      さつまいも

 

新しく植え付ける場合にも、それぞれ種ではなく、この「いも」の部分を用います。すなわち自分の茎や根を利用して増殖するので「栄養生殖」と呼ばれます。栄養生殖では自分の体の一部を元に増殖するため、子孫も親と全く同じ個体になり、作物として優れた性質が安定して受け継がれます。いわば自然界の「クローン植物」と云うことができます。馬鈴薯では花後に実の成るものは少ないそうですが、品種によってはミニトマトのような小さな実を結ぶものがあります。実には茄子と同じように小粒の種ができ、これを蒔くと新芽が出ますが、様々な個体の遺伝子が混ざっているため生まれて来る子孫には変異が多く、作物の栽培用には適しません。一方「さつまいも」の花は、沖縄などの暑い地方を除き日本ではほとんど開花しないため、実をつけることは少ないそうです。

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 昼下がりの馬鈴薯畑です。緑の葉の海の中からにょきにょき顔を出した馬鈴薯の花は、ひしめき合うように寄り集まって賑やかです。おしゃべり好きなおばさん達が大勢集まり、あちこち振り向きながら、ペラペラ夢中になって井戸端会議に話弾んでいるようです。何を話しているのでしょうか。楽しそうですね。

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夕暮れ時の馬鈴薯畑です。落ち行く夕陽を惜しんで何か寂しそうです。昼間あれだけ仲良くしていたのに、お互い素っ気なく、孤立している花もいます。昼間の喧噪はどこへ行ったのでしょうか。

 

 

 

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 馬鈴薯と云えば、ゴッホの絵「馬鈴薯を食べる人々」が思い浮かびます。フィンセント・ファン・ゴッホ(1853年-1890年)は牧師の家庭に生まれ、長ずるにつれ自らも牧師を志すようになり、貧しい人々を救うために伝道活動に励みます。1878年(25歳頃)にはベルギ―の炭鉱で下宿しながら貧しい炭鉱夫のために必死に布教活動を行いますが、彼の強烈な個性は炭鉱夫達に受け入れられず布教活動は失敗に終わり、伝道師への道を絶たれます。失意のうちに故郷オランダへ戻ったゴッホは、やがて画家になることを決意し、習作を繰り返します。この修業時代の集大成とも云える作品が1885年、ゴッホ32歳の頃に描かれたこの絵で、ゴッホにとって最初の本格的な絵画と云われています。ランプの灯りの下で夕食を摂る 貧しい農民一家を描いたものですが、暗い背景の中で明るく照らし出された人物一人ひとりの顔が生き生きと個性的に描かれ、貧しいながらも慎ましく生きる人達に対するゴッホの深い愛情が感じられます。この絵でゴッホは、馬鈴薯を食べる人達の手が、昼間は大地を耕していた手そのものであることを表現したかったと述べています。ゴッホは自ら手や体を使って生産活動に励む労働者に強い共感と敬愛の情を抱いていたのです。この頃のゴッホは、当時弟のテオらが評価していた印象派の明るい絵画には否定的で、「落穂拾い」のミレーらに代表されるバルビゾン派の暗い色調の絵画を手本として制作していました。しかし翌年パリへ出たゴッホは、2年後には明るい光と色彩を求めてアルルへ旅立つことになります。

rijicyoR_07_13 フィンセント・ファン・ゴッホ 馬鈴薯を食べる人々 ゴッホ美術館蔵

 馬鈴薯と云えば、明治時代に活躍し27歳の若さで夭折した天才歌人石川啄木(1886年―1912年)を想い出します。

馬鈴薯の うす紫の 花に降る
雨を思へり
都の雨に

馬鈴薯の 花咲く頃と なれりけり
君もこの花を
好きたまふらむ

 啄木は25歳(1910年)の時に処女歌集「一握の砂」を刊行しますが、上の歌は「煙」の章に、下の歌は「忘れえぬ人々」〈二〉の章に収められています。後者は22首の短歌から成りますが、いずれの歌も啄木が函館の小学校で代用教員をしていた頃、密かに恋心を寄せた同僚教員、橘智恵子へ捧げたものです。啄木は22歳(1907年)で既に妻子があり、千恵子も嫁ぎ先が決まっていました
 
啄木を語る際に欠かすことのできない人物として、アイヌ語の研究で有名な言語学者、金田一京助(1882年―1971年)がいます。

金田一京助と石川啄木

金田一京助と石川啄木

金田一は岩手県の盛岡中学校(現在の盛岡一高)へ入学しますが、同級生に「銭形平治捕物控」で有名な野村胡堂がいました。二人は4級下の啄木に、文学とくに短歌の手ほどきをしたと云われます。また金田一は、放蕩癖の強い啄木の生活を支えるために生涯にわたり金銭的な支援を行いました。金田一は結婚した後も、啄木に無心されると家財道具を質に入れるまでして金を貸しますが、借りた金で啄木は遊蕩三昧を繰り返したそうです。ゴッホの素晴らしい絵画は弟のテオがいなかったら生まれていなかったと云われますが、同様に啄木も金田一がいなかったら世に出ていなかったかも知れません。盛岡一高には後に宮沢賢治が続きます。凄い学校ですね。
 「一握の砂」は、有名な次の歌で始まります。
   東海の 小島の磯の 白砂に
   
われ泣きぬれて
   蟹とたはむる
 その数首後に次の歌があります。
   砂山の 砂に腹這(はらば)ひ 初恋の
   いたみを遠く
   おもひ出(い)づる日
 この歌は今でもよく歌われる歌曲「初恋」の詞になっていますが、作曲したのは越谷達之助(1909年―1982年)です。越谷は東京音楽学校を卒業し和歌山県で高校教師をした後、松竹映画の俳優となり数本の映画に主演したという変わった経歴の持ち主です。「初恋」は1938年(昭和13年)に作られますが、当時プッチーニの歌劇「蝶々夫人」のプリマドンナとして世界的に人気のあったオペラ歌手、三浦環(たまき)が初演しました。三浦が帰国した際、越谷が専属のピアニストとなったご縁だそうです。日本人の繊細な感性を透き通るような旋律で美しく歌い上げた名曲です。

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 さて病院の話題ですが、今回は南医療センターの生理検査室をご紹介します。ここでは女性ばかり5名の臨床検査技師が働いています。一般に臨床検査技師の仕事は余り知られていませんが、血液検査や心電図検査など患者さんから得られる様々な情報を医師に提供する重要な役割を担っています。臨床検査技師の業務は大きく2つに分けることができます。一つは検体検査で、患者さんから採取した血液、尿、喀痰などの検体を化学的に分析し解析するものです。もう一つは生理機能検査で、これには超音波検査や呼吸器機能検査、脳神経筋機能検査などがあり、患者さんに直接検査を行うことにより結果を出します。南医療センターは循環器疾患を中心とした病院ですので生理機能検査を中心とし、なかでも心電図や心臓超音波検査が仕事の大半を占めます。平成26年度には心電図検査6145件、心臓超音波検査4241件を実施しました。さらに彼女達の業務は、手術室やカテーテル室でも行われます。心臓ペースメーカーを植え込む際には、術前の検査から手術中の立ち会い、入院中や退院後の定期チェックまで行います。下肢静脈瘤の治療においては、外来での超音波検査から手術当日のマーキング、手術中の超音波検査などを行い、手術の種類によっては退院後も超音波検査による経過観察まで分担します。臨床検査技師の仕事は、単に検査室の中だけで終わるのではありません。一人の患者さんの診断から治療さらにその後の経過観察まで、一連の診療の流れの中で常に患者さんと緊密に接しながら、刻々と変化する病態を正確に把握することが大切です。そうすることにより、主治医の必要とする情報を的確に導き出すことができ、検査を行う際の注意点なども分かるようになります。また他の部署のスタッフとコミュニケーションを取る機会も増え、院内全体で情報を共有することができるようになります。
 彼女達は、これからも多方面から必要とされる臨床検査技師を目指して診療業務に取り組んでいきたいと張り切っています。どうぞよろしくご支援のほどお願い申し上げます。                                                                                                                                                                                                          

 

(平成27年7月)

桑名市総合医療センター理事長 竹田 寛   (文、写真)

竹田 恭子(イラスト)

 このページに掲載されている絵画は、Webページ「WebMuseum Paris」より転載し、作者名表記および作品名表記について翻訳翻案し、画像サイズを縮小しました。

 

 

 

 

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