理事長の部屋

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5月 すいかずら(吸い葛)

― 白きつねに金きつね、愛嬌たっぷりの愉快な仲間たち―

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 今年のゴールデン・ウィーク、大型連休で天候にも恵まれ、絶好の行楽日和が続きましたが、如何お過ごしになられましたか。私は「つつじ」の写真撮りの毎日でした。何年も前から一度は「つつじ」を書こうと思っていましたので、毎年少しずつ写真を蓄えて来ました。この連休には近所の墓地に植えられている大きな「つつじ」が見事に赤い花を咲かせましたので、今年の5月こそ「つつじ」だと決め、連日写真を撮り続けたのです。こんもりした小山のような表面をびっしり埋め尽くす真っ赤な「つつじ」の撮影に夢中になっていた時、ふと、赤い花の間に長く伸びたつるに白と黄色の小さい花がポツポツと咲いているのを見つけました。これも以前より気になっていた「すいかずら」という花で、何時かまとめて写真を撮ってみたいと思っていました。よくよく見ますと花の形にいろいろな表情があってずいぶん面白いものですから、目はすっかりそちらに奪われてしまい、いつの間にか「すいかずら」の写真ばかり撮るようになっていました。

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                                                       群れて咲くスイカズラ

そこで「つつじ」には申し訳ないのですがもう少し待っていただくこととし、今月の花は「すいかずら」となりました。
 「すいかずら」はスイカズラ科スイカズラ属の常緑つる性の木で、日本原産の植物です。葛(かずら)とはつる性植物の総称ですが、昔から花の基部に含まれる甘い蜜を吸いましたので「吸い葛(すいかずら)」と云われるようになりました。葉をつけたまま越冬しますが、寒い冬を耐え忍ぶような姿から忍冬(にんどう)とも呼ばれます。

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花は2個ずつ対になって咲きますが、5枚の花弁のうち4枚は合弁して上方に開き、1枚は下方に垂れてそり返ります。花の色は初め白ですが、しばらくすると黄色に変わります。「すいかずら」の花は、つるの基部から先端部に向かって順に開いていきます。したがって右の写真のように、つるの基部(上方)にある花は咲いてから時間が経っていますので黄色くなっていますが、先端部に近い下方の花は咲いたばかりなので白色をしています。このように白と黄色の花が混ざり合って咲きますので、「金銀木」とも云われます。
 スイカズラ属の植物は北半球に180種ほどあるそうですが、そのうち欧米で有名なのがハニーサックルで、蜜蜂が好んでこの花の蜜を吸うことからこの名がつきました。和名ではツキヌキニンドウと云います。ハニーサックルの花は「すいかずら」と同じ白と黄色ですが、蕾の色が「すいかずら」の白に対しハニーサックルでは濃いピンク色をしています。

 

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右の写真は近所の藪で見つけた「すいかずら」ですが、蕾がほのかなピンク色をしています。
「すいかずら」もハニーサックルも甘い香りのするのが特徴で、ハニーサックルは「匂い忍冬」とも呼ばれ香水や香料に使われます。「すいかずら」の甘い香りは、昼間は花に顔を近づけないと分からないほど微かなものですが、夜になると強くなります。これは、昼間は鮮やかな色彩で昆虫を誘い、夜は強い香りで夜行性の昆虫を誘うためだそうです。初夏の夜、公園や野道を歩いていて、ふとどこからか甘い香りが漂って来ましたら「すいかずら」かも知れません。
 李香蘭こと山口淑子(よしこ)が、日中戦争の最中に満州で歌った夜来香(イエライシャン)という曲があります。20年ほど前にテレサ・テンさんがカバーしてヒットしました。

       夜来香(イエライシャン)

夜来香とは、ベトナムから中国南部に分布するつる性の植物で、芳香のある黄色い花をつけます。香りは夜になると強くなることから、この漢字名になったのでしょうか。ベトナムのトンキン地方に多くみられますので「トンキンカズラ」とも呼ばれます。「すいかずら」にしろ「夜来香」にしろ夜香る花には、夏の夜空あるいは南国の星月夜を想わせるものがあり、魅惑的で心惹かれるものがあります。
 山口淑子は、1920年中国遼寧省の瀋陽市郊外で日本人を両親として生まれました。日本語も中国語も堪能であったため、1938年18歳の時、中国人李香蘭として女優デビューし、満州国の国策映画などに多数出演し、「蘇州夜曲」「支那の夜」「夜来香」「何日君再来」など数々のヒット曲を歌い、日本人だけでなく中国人からも絶大な人気を博しました。戦争が終わり、李香蘭は日本人に協力した中国人であるとして売国奴の罪にて軍事裁判にかけられ、あわや銃殺刑になる寸前でしたが、友人達の働きにより日本人であることが証明され国外追放となりました。裁判長は判決文で次のように付け加えたそうです。「あなたは日本人であるから売国奴の罪には問えないが、中国人と偽って映画に出演し歌手として活動したことは、甚だ遺憾である」。1946年に帰国してからは本名の山口淑子を名乗って女優活動を続け、テレビ番組の司会者などを経て参議院議員となり、一昨年94歳で波乱万丈の生涯を終えました。戦争は夥しい数の人々の生命を奪い、人生を翻弄します。戦争さえなければ、犠牲になった人達の人生はどう変わっていたでしょう。彼女もまさにそのうちの一人です。
 「すいかずら」には「めしべ」1本と「おしべ」が5本あります。花びらや「めしべ」「おしべ」の形によって様々な表情を示します。そのいくつかを紹介します。

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                   白きつねと金きつねのカップル

 
 
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                      諸手を挙げて喜んでいます

 
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                      時には喧嘩してそっぽ向くことも

 
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      愛らしい幼い兄弟

 
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                               赤ちゃん誕生

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 トランペットの

 ファンファーレが

 開演を告げます

 

 

      

 

            カルテットが

            声高らかに

            歌います

 

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美しい歌声に

誘われる

おとぎ話の世界

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                                          おいで!おいで! たくみに虫を誘います

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                                   千枚舌を使い、まくし立てます

 
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                            時には吼えます

 
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                       疲労困憊、ああ、疲れた!

 

三重苦の障害を克服し、障害者支援のために一生を捧げた奇跡の人ヘレン・ケラー((1880-1968年)の実家には、「すいがずら」の木がたくさん繁っていたようです。サリバン先生が井kaitei戸水をポンプで汲んでヘレンの左手に掛け、もう一方の手に指文字で「water」という単語を書いて、その言葉の持つ意味を理解させる有名な場面がありますが、彼女の自伝では次のように記されています。

 先生と私は、井戸を覆うスイカズラの香りに誘われ、その方向へ小道を歩いて行った。 誰かが井戸水を汲んでいた。先生は、私の片手をとり水の噴出口の下に置いた。冷たい水がほとばしり、手に流れ落ちる。その間に、先生は私のもう片方の手に、最初はゆっくりと、それから素早くw‐a‐t‐e‐rと綴りを書いた。私はじっと立ちつくし、その指の動きに 全神経を傾けていた。すると突然、まるで忘れていたことをぼんやりと思い出したかのような感覚に襲われた-感激に打ち震えながら、頭の中が徐々にはっきりしていく。ことばの神秘の扉が開かれたのである。この時はじめて、w‐a‐t‐e‐rが、私の手の上に流れ落ちる、このすてきな冷たいもののことだとわかったのだ。この「生きていることば」のおかげで、私の魂は目覚め、光と希望と喜びを手にし、とうとう牢獄から解放されたのだ! もちろん障壁はまだ残っていたが、その壁もやがて取り払われることになるのだ。
(奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝 ヘレン・ケラー著 小倉慶郎訳 新潮文庫)

 ヘレン・ケラーは2歳の時に、高熱に伴う髄膜炎のために聴力、視力、言葉を失い、話すこともできなくなってしまいました。

当時欧米では、しょう紅熱の流行のため多数の子供が聴覚や視覚障害になったそうで、ヘレンもその一人と考えられています。現在では抗生物質が発達し合併症はほとんどありません。両親はヘレンを憐み甘やかしたため、彼女はわがままで気難しい子供に育ってしまいます。困り果てた両親は、聴覚障害児教育の研究者であり、電話の発明者としても有名であったアレクサンダー・グラハム・ベルに家庭教師の派遣を依頼します。そしてやって来たのが、盲学校を優秀な成績で卒業したばかりの20歳のアン・サリバン先生でした。ちょうどヘレンが7歳の誕生日を迎える3か月前のことでした。サリバン先生にも視力障害があり、それまでに何度も目の手術を受けていました。自分の経験を生かしてヘレンに「しつけ」「指文字」「言葉」を徹底的に教え込み、ヘレンは諦めていた話すこともできるようになりました。サリバン先生とヘレンの師弟関係は、それ以後50年間続いたそうです。ヘレンは障害者支援のために教育や社会奉仕、政治などいろいろの分野で活発に活動し大きな業績を遺したことはご存知の通りです。日本へも数回訪れ、熱烈な歓迎を受けています。
 サリバン先生とヘレンとの葛藤を描いた戯曲「奇跡の人」は、アメリカでも日本でも舞台劇として数多く上演され、今でも人気があります。また私たちの世代にとって最も印象に残るのは、1962年に封切られましたアメリカ映画「奇跡の人」でしょう。アーサー・ペン監督がメガフォンをとり、サリバン先生役にアン・バンクロフト、ヘレン・ケラー役には既に舞台でヘレン・ケラーを演じ評判を得ていたパティ・デュークが扮しました。私が中学生の頃で映画を観て、あの可愛いパティ・デュークが非常にシリアスな演技をしているのに驚きました。そしてあの井戸でのシーンが強烈に胸に刻まれました。50年ぶりに映画を観直しましたが、二人の迫真の演技には改めて感動させられました。この映画によりアン・バンクロフトとパティ・デュークは、それぞれ1962年度のアカデミー主演女優賞、助演女優賞を受けています。パティ・デュークは今年の3月29日、満69歳で亡くなったそうです。

 さて病院の話題です。今回は西医療センターの緩和ケアチームを紹介します。
 がん看護専門看護師という資格があります。これは闘病生活を送るがん患者さんやご家族の肉体的、精神的、社会生活上での苦痛を総合的に掌握して、その苦痛を和らげ、患者さんがその人らしい生活を送れるようにサポートするものです。
 がん看護専門看護師の主な活動の一つに、緩和ケアチームの一員として活動することがあります。緩和ケアチームは、医師や看護師だけでなく、薬剤師、理学療法士、言語聴覚士、栄養士、医療ソーシャルワーカーなど多方面の専門家が一体となって構成されます。

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       藤岡院長と緩和ケアチームの皆さん

 一方、緩和ケアの対象となるのは、がん患者さんだけではありません。それ以外の病気で命を脅かされかねないような患者さんやご家族も含まれます。緩和ケアチームのスタッフは、まず患者さんやご家族とじっくり時間をかけて話し合います。その上で患者さんのいろいろな苦痛を取り除き、その人らしい生き方ができるようにするには今何をなすべきか、あらゆる角度から検討します。昨年度は延べ300例近くの患者さんやご家族と話し合い、最適の治療や緩和ケアを提供させていただきました。対象となった主な疾患には、胃がん、大腸がんをはじめとする消化器がん、乳がん、心不全、呼吸不全、重度の褥瘡など多岐にわたりました。
 緩和ケアと聞くと終末期医療、看取りの診療と思われる方も少なくないかも知れません。実はそうではなく、患者さんが命を脅かされるかも知れない病気と診断された時から早期に開始し、病気とうまくつきあいながら、患者さんがよりよい生活を続けられるように治療や生活支援をするチーム医療のことです。スタッフの皆さんは明るくやさしい人達ばかりです。病気や治療のことでお困りのことがありましたら、お気軽にお声がけください。

桑名市総合医療センター理事長 竹田 寛(文、写真)
竹田恭子(イラスト)

 

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