理事長の部屋

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8月:悪なすび(ワルナスビ)

8月:悪なすび(ワルナスビ) 

―牧野博士は、そうおっしゃいますが・・・―

夏の盛りを過ぎた頃、色付き始めた稲穂の大海原を背景に咲く悪なすび。 遠くの家並みや道路が柔らかさを増した夏の陽を受けてぼんやり光ります。

 師走を迎え、比較的穏やかな日が続いています。先月11月の18日には、福岡や下関、松江などの日本海側の地方で、例年よりも1か月ほど早い初雪を観測し、このまま日本列島は冬に入っていくのかと心配されました。しかし12月に入り、寒い日もあれば温かい日も続いたりして、例年の初冬のような気候が続いています。
 インフルエンザが流行し、小中学校では学級閉鎖が相次いでいます。私たちの病院の職員の中にも休む人が多くなっています。コロナも少しずつ増えていますが、インフルエンザに比べればその数は非常に少なく経過しています。しかしインフルエンザかなと思っていたらコロナだったという職員もいて油断はできません。インフルエンザとコロナのワクチンはもう済まされましたか?街では忘年会なども復活して、再び賑やかさを取り戻して来たようです。果たしてこの冬は、例年より寒くなるのでしょうか、あるいは暖冬でしょうか?

 さて季節は夏、8月の花はワルナスビ(悪なすび)です。先月の「クサギ(臭木)」に次いで気の毒な名前の付けられた植物です。ナス科ナス属の多年草で、北米原産、欧州からアジア、オセアニアなど世界中に広く分布しています。日本には明治時代後半に伝わり帰化したそうです。呆れるほど繁殖力が旺盛で、広く深い根茎(地下茎)が栄養繁殖をしてどんどん増えて行きます。栄養繁殖とは、根や茎、葉などから直接子孫が分離するなどの方法で増殖していく無性生殖の一種です。種子を介する有性生殖よりも、直接に確実に子孫を増やすことができます。したがって刈っても刈っても、抜いても抜いてもお構いなく、次から次へと増えて行きます。またナス、トマト、ジャガイモなど同じナス科の畑に増殖しますと、連作障害により翌年これらの野菜は作れなくなります。

 

 全草にソラニンという毒が含まれているため家畜の餌にもならず、黄色いミニトマトのような果実はさらに毒性が強く食べられません。「ジャガイモの芽を食べるな」とよく言われますが、それはソラニンを含んでいるからです。 
 おまけに葉や茎には鋭く大きな棘(とげ)が多数あり、うかつに触れません。

悪なすびの花と葉

悪なすびの葉の裏面。主脈や茎には、鋭く大きな棘がたくさんあります。悪なすびの葉は、表も裏も触るとざらざらしますが、放射状に拡がった毛(星状毛)がびっしり生えているからです。


悪なすびの花(長花柱花)

ナスの花

 悪なすびの花の色は白か薄紫で、5枚の花弁が星型に開き、直径25mmほどのナスに似た小さな花を咲かせます。「おしべ」は5本、「めしべ」は1本です。花の中央に小さな黄色いバナナのようなものが円を作って並んでいますが、これが「おしべ」の葯で、中には花粉が詰まっています。側方から観察しますと、葯に比べ花糸は極端に短いことが分かります。円形に並んだ葯の中心を「めしべ」の花柱が伸び、柱頭が顔を覗かせます。

葯の先端の2個の開口部

花が下向きに咲きますと 自家受粉しやすくなります。

  葯の先端には2個の開口部 があり、そこから花粉が放出されて自分の「めしべ」の柱頭へ付着し自家受粉します。上向きに咲いた花では「めしべ」の柱頭が高い位置にありますので、風に吹かれるなどして舞い上がる必要がありますが、花が下向きに咲きますと受粉は容易になります。もちろん、風や虫などにより他の花の柱頭へ運ばれて他家受粉することもあります。

 

 悪なすびの花の多くは、「めしべ」の花柱が長く柱頭が葯の中央から突出する「長花柱花」ですが、中には右の写真のように「めしべ」がほとんど見えないものもあります。「めしべ」の発育の悪い「短花柱花」ですが、上の写真のナスの花も「めしべ」を確認することが困難で短花柱花かも知れません。

悪なすびの短花柱花

 

 

 繁殖力が強くて毒があり、棘もある、悪いこと尽くめの悪なすびですが、この名付け親は、今年の春から夏、お茶の間の人気を集めたNHKの朝ドラ「らんまん」の主人公、牧野富太郎博士(1862-1957)です。命名の由来が、博士の著者「植物一日一題」に記されています。  

牧野富太郎博士

 ワルナスビとは「悪る茄子」の意である。前にまだこれに和名のなかった時分に初めて私の名づけたもので、時々私の友人知人達にこの珍名を話して笑わしたものだ。がしかし「悪ルナスビ」とは一体どういう理由で、これにそんな名を負わせたのか、一応の説明がないと合点がゆかない。
 下総の印旛郡に三里塚というところがある。私は今からおよそ十数年ほど前に植物採集のために、知人達と一緒にそこへ行ったことがある。ここは広い牧場で外国から来たいろいろの草が生えていた。そのとき同地の畑や荒れ地にこのワルナスビが繁殖していた。私は見逃さずこの草を珍らしいと思って、その生根を採って来て、現住所東京豊島郡大泉村(今は東京都板橋区東大泉町となっている)の我が圃中に植えた。さあ事だ。それは見かけによらず悪草でそれからというものは、年を逐うてその強力な地下茎が土中深く四方に蔓こり始末におえないので、その後はこの草に愛想を尽かして根絶させようとしてその地下茎を引き除いても引き除いても切れて残り、 それからまた盛んに芽出って来て今日でもまだ取り切れなく、隣りの農家の畑へも侵入するという有様。イヤハヤ困ったもんである。それでも綺麗な花が咲くとか見事な実がなるとかすればともかくだが、花も実もなんら観るに足らないヤクザものだから仕方ない、こんな草を負い込んだら災難だ。
 茎は二尺内外に成長し頑丈でなく撓みやすく、それに葉とともに刺がある。互生せる葉は薄質で細毛があり、卵形あるいは楕円形で波状裂縁をなしている。花は白色微紫でジャガイモの花に似通っている一日花である。実は小さく穂になって着き、あまり冴えない柑黄色を呈してすこぶる下品に感ずる。この始末の悪い草、何にも利用のない害草に悪るナスビとは打ってつけた佳名であると思っている。そしてその名がすこぶる奇抜だから一度聞いたら忘れっこがない。
                牧野富太郎著 植物一日一題  青空文庫より引用

 牧野博士の酷評するように、確かにやっかいな悪なすびですが、その咲いている姿は愛らしく、棘さえなければ、もっと人から好かれるのではないでしょうか。

やさしそうな花です。


色付き始めた稲穂の黄緑とよく合います。


夕暮れ時、眠りに就く悪なすびの花。右上に鋭い棘が不気味に光ります。


陽の傾きかけた頃、可憐に咲く悪なすびの花。 棘を持っているとはとても思えません。

 

 上の写真は、うす紫と白のジャガイモの花ですが、同じナス科ですので、悪なすびの花によく似ています。何となく愛嬌のある花で、そのユーモラスで楽しい姿を、8年前の理事長の部屋(20157)で「馬鈴薯の花―梅雨の晴れ間、おしゃべりおばさん達の昼下がり―」と題して特集しました。初夏の畑一面に咲く馬鈴薯の花を見て次のように記しています。 

 昼下がりの馬鈴薯畑です。緑の葉の海の中からにょきにょき顔を出した馬鈴薯の花は、ひしめき合うように寄り集まって賑やかです。おしゃべり好きなおばさん達が大勢集まり、あちこち振り向きながら、ペラペラ夢中になって井戸端会議に話弾んでいるようです。 何を話しているのでしょうか。楽しそうですね。
 この中で私はジャガイモと馬鈴薯という言葉を同じ意味として使っています。恐らくこれは私だけでなく、多くの方がジャガイモ­=馬鈴薯と考えられているのではないでしょうか。ここで再び牧野博士が登場します。前述の「植物一日一題」の冒頭の随筆「馬鈴薯とジャガイモ」の中で、次のように苦言を発しておられます。

 ジャガタライモ、すなわちジャガイモ(Solanum tuberosum L.)を馬鈴薯ではないと明瞭に理解している人は極めて小数で、大抵の人、否な一流の学者でさえも馬鈴薯をジャガイモだと思っているのが普通であるから、この馬鈴薯の文字が都鄙を通じて氾濫している。が、しかしジャガイモに馬鈴薯の文字を用うるのは大変な間違いで、ジャガイモは断じて馬鈴薯そのものではないことは最も明白かつ確乎たる事実である。こんな間違った名を日常平気で使っているのはおろかな話で、これこそ日本文化の恥辱でなくてなんであろう。            
                 牧野富太郎著 植物一日一題  青空文庫より引用

牧野博士はその理由を次のように記しています。
 「ジャガイモ(ジャガタライモ)は南米アンデス地方が原産で、それが欧州を介して東洋へ伝わり日本へ入って来たものである。一方の馬鈴薯は、中国の福建省の一地方に産する植物の名称であるが、その本体については中国人すら知る人が少なくよく分からない。しかしある古文書には、蔓性の植物でその根は鈴のように丸く味は苦甘いと書かれている。それを江戸時代の本草学者小野蘭山が、1808年ジャガタライモを馬鈴薯と言い出したのが始まりである。したがって馬鈴薯の名を即刻放逐すべきである。」

 なるほど、ジャガイモと馬鈴薯の違いはよく分かりましたが、馬鈴薯という言葉には、文学的でロマンのようなものを感じます。それがジャガイモとしか呼べなくなったら、 せっかく美味しいジャガイモも、味気なくなるのではないでしょうか。

 さて今年は、日本映画の世界的名監督小津安二郎(1903-63年)の生誕120年にあたります。誕生日も亡くなられた日も同じ1212日、しかも60歳で亡くなられていますので、没後60年にもあたります。それを記念して全国各地で多数のイベントが開かれ、マスコミでも様々な特集が組まれています。三重県においても、彼岸花映画祭実行員会(私もメンバーの一人です)の主催により県内各地で小津映画の上演会が開催され、桑名でも1014日に小津監督の代表作「東京物語」の上演会が開かれました。

 小津安二郎は、黒澤明と並ぶ日本映画界を代表する映画監督で、代表作に「晩春」「麦秋」「東京物語」「彼岸花」「秋刀魚の味」などがあり、多くの作品は世界的にも高い評価を受けています。
 1903(明治36)年東京に生まれ、9歳の時に松阪へ移り住み、以後19歳で上京して松竹蒲田撮影所へ入社するまでの10年間、三重で暮らしました。多感な少年時代から青年時代を風土穏やかな伊勢の地で暮らしたことになり、この頃培われた人生観や自然観が後の小津映画の根底を形作ることになります。「ゆるやかで無難な展開」「登場人物の抑揚の少ない話し方」など小津調と呼ばれる独特の作風は、「伊勢路ののどかさ」に由来すると本人自身も述べています。

 

小津安二郎監督

 小津少年は、母親の実家が津市大門の観音寺近くの宿屋町にありましたので、祖母に会うためにしばしば津を訪れていました。そこで観音寺の境内には、彼岸花映画祭実行委員会により小津安二郎の記念碑が建てられていて、次のように記されています。

  

   

   おばあさんが津の宿屋町に住んでいる。

   朝早く僕はおばあさんの前に久振りに

   両手をついて殊の外真面目に云った

     ―行ってまいります。

   おばあさんは笑いながら

     ―またおいなされ、

   僕はなんだか悲しくなった。  

     おいなされ 又このつぎに 彼岸草        

              小津安二郎

 当時より観音さん周囲の大門地区は市内唯一の繁華街であり、飲食店が立ち並び、芝居小屋や映画館も数軒ありました。若き日の小津監督も、祖母の家へ来ると大門へ出掛け、映画館をはしごしたりして映画をよく観たそうです。恐らくこれから紹介致します曙座へも足繁く通ったものと思われます。
 私の生まれは美杉村奥津(現在の津市美杉町奥津)ですが、4歳の時に大門へ引越し、以後成人するまで住みましたので、観音さんの境内を遊び場として育ちました。境内の西側には「曙座」という広い舞台を備えた大きな映画館がありました。

 曙座は1898(明治31)年県内最大の劇場として設立され、その規模は全国の有名な劇場や芝居小屋と比較しても遜色がなかったそうです。歌舞伎や演劇、漫才、落語などの大衆芸能、流行歌手の公演などが開催されて、市民に親しまれて来ました。太平洋戦争の空襲により全焼しますが、1950(昭和25)年再建されました。外壁は薄い緑色で、正面入り口の上には大きなバルコニーがありました。

曙座

 亀山市に生まれた有名な映画監督衣笠貞之助は、子供の頃母親に連れられて曙座へよく通い映画を観たそうです。また喜劇女優として人気のあったミヤコ蝶々は、若い頃夫の南都雄二と組んで夫婦漫才を演じていましたが、その初演は1948(昭和23)年曙座でした。
 曙座は私の家から歩いて5分もかからない所にありましたので、映画好きの母親は、小学低学年の私の手を引いてよく映画を観に出掛けました。曙座は大映映画の封切館で、長谷川一夫、市川雷蔵、三益愛子などの映画をよく観ました。「赤胴鈴之助」が上映された時も場内は超満員、映画の開始と同時に拍手や歓声、掛け声が湧きあがり映画の音が聞こえないほどでした。小学高学年の頃にあった美空ひばり公演のこともよく覚えています。舞台終了後、ひばりさんは我が家の近くの料理旅館へ泊まりました。ひばりさんの部屋は通りに面した 2階にあり、部屋の灯りを一目見ようと、たくさんのファンや近所の人達が通りへ集まり、夜遅くまでたむろして、一晩中町全体が興奮に包まれているようでした。
 もう一つ忘れられないのは、60年安保です。私は小学5年生でしたが、全国的に「安保反対」運動が盛り上がり、各地で頻繁にデモ行進が行われていました。615日には国会議事堂前のデモ行進で、東大生樺美智子さんが亡くなりました。その前か後か、岸信介首相が来津し曙座で立会演説会を開くというので、私は父に連れられて会場へ入りました。この時も超満員で、岸首相の演説が始まるや否や会場はヤジと罵声で騒然となり、首相の声も聞こえないほどでした。たくさんの大人達が喧嘩腰に言い争っている、騒然とした会場の雰囲気に小学生の私は圧倒され、「えらいことになっているのやなあ」と強い衝撃を受けました。

 これらの話は、古き良き時代の地方都市での大イベントとでもいうのでしょうか。その舞台となったのが曙座ならば、その時代に生きた人々の「やさしさ」や「哀しみ」を描いたのが小津映画といえるのでしょうか。

             (今回も医療とウクライナの話はお休みに致します)

                                                                                                     令和51210

                                                         桑名市総合医療センター理事長  竹田  寛 (文、写真)     
                                                                                                                竹田 恭子(イラスト)

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